畝歩の面積を占め、なお勢いよく四方に拡がろうとして強勢なる鞭根すなわち地下茎を張り、竹稈の太いものは根元から一尺くらいのところでその直径約四寸余もあるようになった。この竹藪の実生以来生きて小藪をなし藪の一隅に存していたものは今は伐り除かれてなく、今日はその株から出発して後を継ぎ年々生じた稈で竹林をなし、年々三、四十本ほどの筍すなわち笋が勢いよく生じているとのことだ。
このように実生から出足して明かにその年数のわかっている竹林は恐らく日本国中この中山の斎藤君宅地よりほかにはない珍らしいものであるから、私の切に希望するところはその持主の斎藤君がこれまで通り今後も永くこれを愛護せられて、このめでたい竹林とともに同家の益々繁栄せんことを切に祈るのである。
去る大正十五年(1926)五月三十日発行の『植物研究雑誌』第三巻第五号の口絵には、実生から十五年をへた上のモウソウ藪の写真図が出ていてその時の状況が窺われる。そして該写真は同年五月四日に横浜市の薬舗平安堂主人の清水藤太郎君が老練な手腕で撮影したもので、その竹林中に威勢のよい筍が数本直立している。
孟宗竹の中国名
モウソウチクは元来中国の原産であるが、それが昔同国から琉球へ渡り、琉球からさらに日本の薩摩に伝わった、すなわち薩州藩主の島津吉貴《しまづよしたか》(浄園公)が琉球からその苗竹を薩州鹿児島に致さしめたによるのだが、それは元文元年(1736)であった。それからこのモウソウチクで薩摩を起点として漸次に我国各地に拡まって、やがて竹類中の宗となった。
モウソウチクは孟宗竹と書く。これはもとより漢名ではなく初め薩摩での俗称であったのだが、今日ではこれが我国の通名となっている。元来孟宗は中国での二十四孝中の孝子の名で雪中に筍を掘って母に進めたといわれる故事から、この竹の筍が早く出て美味であるところから、この故事に付会し、さてこそこれを孟宗竹と名づけたものである。カンチク(寒竹の意)と呼ぶ小竹も冬に筍が生ずるので、これもまた同じく孟宗竹の俗名がある。しかるに中華民国二十六年(1937)に刊行せられた陳※[#「山+榮」、第3水準1−47−92]《ちんえい》の著『中国樹木分類学』に孟宗竹の名が挙げられているが、これを中国名だとするのはもとより誤りで、これはまさに日本名であるから蓋し著者がこの名を日本の書物から転載したものであろう。そして同書に掲げてある本品の図もじつは坪井伊助《つぼいいすけ》氏著の『坪井竹類図譜』から採ったものであることに気を利かせてみねばならない。
日本では従来中国の江南竹をモウソウチクだとしているが、これは全く適中していなく、この江南竹はけっしてモウソウチクそのものではない。それはその稈の節から出る枝が毎節明かに三本ずつになっているのでも判かる。しかしこのモウソウチクは元来中国の原産で最も顕著な竹であるのだから、何か中国名すなわち漢名があるに相違ないと考え、そこで李※[#「衙」の「吾」に代えて「干」、223−17]《りかん》の著した『竹譜詳録《ちくふしょうろく》』(全七巻)をひもときその各種竹品の記文を検討してみたところ、果たしてその中での狸頭竹《リトウチク》、一名|※[#「豸+苗」、第4水準2−89−6]彈竹《ビョウダンチク》がまさにモウソウチクそのものであることを突き止めえた。しかしこの狸頭竹、※[#「豸+苗」、第4水準2−89−6]彈竹の名は既に明治十九年(1886)に出版せられた片山直人氏の『日本竹譜』にモウソウチクの漢名として引用してあるが、それはモウソウチクにあてた江南竹の異名として挙げてあるにすぎず、敢えて正面の名とはなっていない。今次に右『竹譜詳録』の文章とその図とを抄出してみると
[#ここから3字下げ]
狸頭竹、一名※[#「豸+苗」、第4水準2−89−6]彈竹、処処ニ之レアリ、江淮ノ間生ズル者高サ一二丈径五六寸、衡湘ノ間ノ者径二尺許、其節ハ下極メテ密ニシテ上漸ク稀ナリ、枝葉繁細、筍ハ庖饌ニ充テ、絶佳ナリ、此筍ノ出ヅル時、若シ近地堅硬或ハ礙磚石ナレバ則チ間ニ遠近ナシ、但シ出ヅベキ処ニ遇ヘバ、即チ土ヲ穿テ出ヅルコト猶ホ狸首ガ隙ヲ鑽《ウガ》チ通透セザル無キガゴトシ、故ニ此名ヲ寓ス、亦高サ一丈許ニ止マル者アリテ下半特ニ枝葉ナク、人家庭院ニ栽植ス、枝葉扶疎、清陰地ニ満チテ殊ニ愛悦スベシ、然レドモ竹身ニ下※[#「扮」のつくり/鹿」、224−11]ニシテ上細ク、竿大ニシテ葉小ク、図画ニ宜シカラズ、広中ニ出ヅル者ハ筍味佳カラズ、江西及ビ衡湘ノ間、人冬ニ入リ其下、地縫裂スル処ヲ視テ掘リ之レヲ食フ、之レヲ冬筍ト謂ヒ甚ダ美ナリ、留メテ取ラザレバ春ニ至テ亦腐朽シ、別ニ春筍ヲ生ジテ竹ト為ル、福州ノ人謂ツテ麻頭竹ト為ス(漢文)
[#ここで字下げ終わり]
である。またこれは猫頭竹とも※[#「豸+苗」、第4水準2−89−6]頭竹とも猫児竹とも猫竹とも毛竹とも茅竹とも南竹とも称えるが、陳※[#「温」の「皿」に代えて「俣のつくり−口」、第4水準2−78−72]子《ちんこうし》の『秘伝花鏡《ひでんかきょう》』によれば
[#ここから3字下げ]
猫竹一ニ毛竹ニ作ル、浙|※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]《び》ニ最モ多シ、幹ハ大ニシテ厚シ、葉ハ細ク小サクシテ他ノ竹ニ異ナリ、人取テ牌ニ編ミテ舟ヲ作り或ハ屋ヲ造ルニ皆可ナリ(漢文)
[#ここで字下げ終わり]
と書いてある。そしてこの毛竹の名はあるいは猫竹の音便で毛竹となったのかも知れないが、しかしモウソウチクにあってはその嫩稈の膚面に短細毛が密布(後に脱落する)しているので、あるいはそれで毛竹というのかとも思われるが、果たして然るか否かはっきりしない。
[#「狸頭竹の冬筍と春筍、李※[#「衙」の「吾」に代えて「干」、225−図のキャプション]『竹譜詳録』」のキャプション付きの図(fig46820_29.png)入る]
今モウソウチクの漢名としては猫頭竹を用いることとし、その他の※[#「豸+苗」、第4水準2−89−6]彈竹、猫頭竹、※[#「豸+苗」、第4水準2−89−6]頭竹、猫児竹、猫竹、毛竹、茅竹、南竹をその一名とすればよろしい。すなわちこれでモウソウチクの漢名がきまり、従来久しく慣用し来った江南竹の漢名は今はモウソウチクとは絶縁となった、これでなんだか清々した気分だ。
私はこのモウソウチクをハチク、マダケの属と分立せしめて一つの新属を建ててみるつもりで Moosoobambusa の新属名と Moosoobambusa edulis(Riv[#「Riv」は斜体].)Makino[#「Makino」は斜体] の新学名とを用意した。近くその委曲を発表することにしている。
日本では竹籔の場合によく竹冠りを書いた籔の字を用いているが、元来この籔の字にヤブの意味は全然なく、これはすなわち桝目などに使う字だ。竹ヤブだから藪の字の艸冠りを竹冠りの籔の字にしてみたのは日本人の細工だ、細工は流々だがその仕上げはあまりご立派ではなかった。
紫陽花とアジサイ、燕子花とカキツバタ
私はこれまで数度にわたって、アジサイが紫陽花ではないこと、また燕子花がカキツバタでないことについて世人に教えてきた。けれども膏肓《こうこう》に入った病はなかなか癒らなく、世の中の十中ほとんど十の人々はみな痼疾で倒れてゆくのである。哀れむべきではないか。そして俳人、歌人、生花の人などは真っ先きに猛省せねばならぬはずだ。
全体紫陽花という名の出典は如何。それは中国の白楽天の詩が元である。そしてその詩は「何年植向仙壇上、早晩移植到梵家、雖在人間人不識、与君名作紫陽花」(何ンノ年カ植エテ向フ仙壇ノ上《ホト》リ、早晩移シ植エテ梵家ニ到ル、人間ニ在リト雖ドモ人識ラズ、君ガ与《タ》メニ名ヅケテ紫陽花ト作《ナ》ス)である。そしてこの詩の前書きは「招賢寺ニ山花一樹アリテ人ハ名ヲ知ルナシ、色ハ紫デ気ハ香バシク、芳麗ニシテ愛スベク、頗ル仙物ニ類ス、因テ紫陽花ヲ以テ之レニ名ヅク」である。考えてみれば、これがどうしてアジサイになるのだろうか。アジサイをこの詩の植物にあてはめて、初めて公にしたのはそもそも源順《みなもとのしたごう》の『倭名類聚鈔《わみょうるいじゅしょう》』だが、これはじつに馬鹿気た事実相違のことを書いたものだ。今この詩を幾度繰り返して読んでみてもチットもそれがアジサイとはなっておらず、単に紫花を開く山の木の花であるというに過ぎず、それ以外には何の想像もつかないものである。ましてや元来アジサイは日本固有産のガクアジサイを親としてそれから出た花で断じて中国の植物ではないから、これが白楽天の詩にある道理がないではないか。従来学者によっては我がアジサイを中国の八仙花などにあてているが、それは無論間違いである。そしてまたアジサイは中国の繍毬ならびに粉団花に似たところがないでもないが、これらも全く別の品である。しかし近代の中国人は日本から中国へ渡ったアジサイを瑪理花(毬花の意)とも、天麻理花(手毬花の意)とも、また洋繍球とも、あるいは洋綉球ともいっているが、この洋は海外から渡来したものを表わす意味の字である。とにかくアジサイを中国の花木あるいは中国から来た花木だとするのは誤認のはなはだしいものである。そしてこのアジサイを日本の花であると初めて公々然と世に発表したのは私であった。すなわちそれは植物学上から考察して帰納した結果である。
次はカキツバタの燕子花だが、そもそもこの燕子花の出典は如何。これは『渓蛮叢笑《けいばんそうしょう》』という本の中にある「紫花ニシテ全ク燕子ニ類シ藤ニ生ズ、一枝ニ数葩」(漢文)とほんのこればかりの短文から出たものであるが、この燕子花はじついうとキツネノボタン科(Ranunculaceae)の一陸草である Delphinium grandiflorum L[#「L」は斜体]. の漢名である。この植物はまた飛燕とも紫燕とも称し、和名をオオヒエンソウと呼ばれる。右の「藤ニ生ズ」とはヒョロヒョロした弱い茎に碧紫色の美花が七、八輪も咲いているので、それで「一枝ニ数葩」と書いたものだ。そしてこの植物は前述の通り陸草であって水草ではなく、その産地は中国の北部から満州へかけ、また広くアルタイ、バイカル、ダフリア、オホーツクなどのシベリア地方に野生し普通に見られる宿根性の花草であって、これが前記の通り燕子花そのものである。
カキツバタはアヤメ科 Iris 属[#「属」に「ママ」の注記]の水草で、その花梗はツンとして強く立っており、花は梗頂に通常三個あるが、それが一日に一輪ずつしか咲かない。こんな草を、ヒョロヒョロして弱い茎に七、八花も咲く本当の燕子花に比べれば少しも合致するところがなく、カキツバタを燕子花だとする従来の学者の迂遠を笑わざるをえない。世人殊に詩人、俳人、歌よみ、活け花師などは早速この間違った旧説から蝉脱して正に就き識者の嗤笑《ししょう》を返上せねばなるまい。
昔からまたカキツバタと誤っている杜若の真物は、ショウガ科のアオノクマタケランである。人に笑われるのが嫌ならカキツバタを杜若と書かぬようにせねばならない。
楡とニレ
日本の学者は中国の楡を日本のニレだとしているが、元来楡は日本にはない樹であるから日本のニレではあり得ない。それはニレ属(Ulmus)には相違がないが、けっしてニレその樹ではない。つまり従来からの日本の学者は本物の楡を知らなかった。しかしそれは無理もない。すなわち楡は絶えて日本に産しないから、その実物の捕捉が我が学者には出来なく、ついに楡をニレとする誤りに陥ったのである。
元来楡は大陸の産でシベリアから中国ならびに満州にかけて広く生じている大木である。木の大きい割合に葉の極めて小さいものである。そして春早く葉の出ない前に小さい花が枝上に咲き、直ちに実を結び、それから葉が茂るのである。すなわち花、実、葉という順序である。
楡は中国には沢山ある普通樹で、それが食物と関係があるから極く著明である。食物
前へ
次へ
全37ページ中30ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 富太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング