だ。そこでまた一つにこれを忘憂草とも称えまた療愁ともいわれる、すなわち療愁とは憂いを癒やす義である。
中国の萱草は一重咲のものが主品である、すなわち学名でいえば Hemerocallis fulva L[#「L」は斜体]. である。この種名の fulva は褐黄色の意で、これはその花色に基づいたものである。この品は絶て日本には産しなく、ただ中国のみの特産である。それでこれをシナカンゾウともホンカンゾウともいわれる。上に書いたヤブカンゾウ(一名鬼カンゾウ)はその一変種で八重咲の花を開くが、面白いことにこれは中国ばかりでなく日本にも産する。つまり母種の一重咲のものはひとり中国のみに産し、その変種の八重咲のものが中国と日本とに産する。地質時代の昔の日本がまだアジア大陸に地続きになっていた時分にこの八重咲品のみが日本へ拡がっていて、その後中国と日本との間へ海が出来た後ち今にいたるまでこの八重咲品のみが日本の土地へ遺され、親子生き別れをしたものだ。中国の『救荒本草《きゅうこうほんぞう》』という書物にこの八重咲品の図が載っている。
萱草を食用にすることは、日本よりも中国の方が盛んであるようだ。中国の本に「今人多[#(ク)]採[#(リ)][#二]其嫩苗及花※[#「足へん+付」、第3水準1−92−35][#(ヲ)][#一]作[#(シ)][#レ]※[#「くさかんむり/俎」、179−9][#(ト)]食[#(フ)]」と出て、また「人家園圃[#(ニ)]多[#(ク)]種[#(ユ)]」とも書いてある。また「花、葉芽倶[#(ニ)]嘉蔬[#(ナリ)]」ともある。また中国では「京師[#(ノ)]人食[#(フ)][#二]其土中[#(ノ)]嫩芽[#(ヲ)][#一]名[#(ク)][#二]扁穿[#(ト)][#一]」と述べてあるが、これはすなわち冬中に採る極めて初期の小さい嫩芽である。いつであったか数年前、東京の料理屋でこれを食膳に出したと聞いたことがあったがどこから仕入れたものか。これは通人の口に味う趣味的の珍らしい食品であって、多分少々舌に甘味を感ずるのであろう。おそらく扁穿とは扁《ひらた》き芽が土を穿って出るとの意味ではないかと思う。
憂さを忘れるなら何にもワスレグサに限ったことはなく、綺麗な花なら何んでもよい筈だが、中国でたまたま草が乏しい場所であったのか、この大きな萱草の花を撰んで打ち眺めたものであろう。
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美しき花を眺むる憂さ晴らし、思い余りし吾れの行く末
美しい花をながめりや憂ひを忘る、それがせめての心やり
忘れぐさ忘れたいもの山々あれど、忘れちゃならない人もある
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根笹
根笹(ネザサ)は何度刈っても幾度刈っても一向に性こりもなく後から後から芽立って来て仕方ないもので、庭でも畑でもじつに困りものの一つである。いったい根笹に限らず竹の類はみな同様である。
なぜそう次ぎから次ぎからと出て来るのか。それは用意された芽が無数にあるからである。すなわちその地下茎(いわゆる鞭根)でも、またそれから岐れた枝でも、さらにまたそれから地上に出た幹枝でも、みなその多くの節には必ず一つずつの芽を持っていて、不断は何年間も眠っているのだが、時いたればたちまち萌出する。だからいくら先きの方、上の方を伐りとっても、すこしもひるまず続々と出で来るので始末におえなく、まことに根強い繁殖の方法をとっているが、つまるところあらかじめ用意された芽が非常に豊富だからである。竹の節には地下部と地上部とを問わず、その節のあらん限りにみな一つずつの芽を用意している、すなわち節が十あれば芽が十、節が百あれば芽が百、また節が千あれば芽が同じく千あるのである。まことにもって力強い竹類笹類ではある。
ほかの竹も同じように、マダケ、ハチク、モウソウチクの地下茎すなわち鞭根には節毎に必ず一つの芽が用意せられてあるが、毎年でる筍は僅かの数しかなく、他の芽はみな眠りこくっている。もしその予備せられてある芽がことごとく萌出したなら無数の筍がノコノコノコノコと出る訳だ。が、しかしその鞭根は年々歳々ほんの少しばかりずつ経済的に筍の小出しをやっているのである。
ヤダケ、メダケなどの稈は、根元からその各節に芽が用意せられてあるが、しかしそれが枝になるのは梢部であって、中途から下には通常枝が出ずにいる。しかるにもし根元の節の芽も一斉にみな芽出って枝となったとすれば、その株元から上枝葉が繁茂してすこぶる欝忽たるものになるに相違ない。
モウソウチクの稈は他と違って中部以下の節には芽の用意がない。
菖蒲とセキショウ
日本にショウブ(Acorus Calamus L[#「L」は斜体]. var. asiaticus Pers[#「Pers」は斜体].)とセキショウ(Acorus gramineus Soland[#「Soland」は斜体].)との二つがある。これはもとより同属植物ではあるが、無論別種のものであることは誰でも知っているだろう。かく和名でショウブ、セキショウといえば、少しも紛らわしく混雑することもなく、極めて明々瞭々たりであるが、さてそこへ漢名が割りこんで来るとたちまち面倒が起こってきて、是非とも一言を費さねばすまん始末となる。早くこの厄介な漢名を駆逐しないことには、いつまでたっても植物界の騒動は免かれ得ない悩みがある。
ショウブは菖蒲から来た名であるから、それをそのまま菖蒲と書けば問題はなかりそうだが、そうは問屋がゆるさない。普通の人はショウブを菖蒲としているが、これは大変な間違いで菖蒲はけっしてショウブではない。では菖蒲は何か。この菖蒲はセキショウそのものである。そしてショウブは白菖と書かねばそのショウブにはなり得ない。この白菖は一つに泥菖蒲とも水菖蒲ともいわれる。
この白菖であるショウブは昔はアヤメともアヤメグサとも呼んでいてよく歌に詠まれたもんだ。彼の「ほととぎす鳴くや早月のあやめぐさ、あやめも知らぬ恋もするかな」の歌はその代表的なもんだ。今日アヤメというものはアヤメ科の Iris 属[#「属」に「ママ」の注記]のものだが、昔はこれを花アヤメといった。世間で上の本当のアヤメの名をいわぬようになったので、自然にこのハナアヤメがアヤメと呼ばれるようになった。
セキショウはサトイモ科で、それが本当の菖蒲である、すなわち菖蒲はセキショウである。このセキショウの菖蒲を中国人は大いに貴び、書物には縷々とその薬効が述べてある、すなわちその地下茎を服していると骨髄が堅固になり、顔色に光沢が出で、白髪が黒くなり、歯が再び生じ、眼がよく明かになり、音声も朗らかとなり、精神も老いず、そして長生きするとあって、中国人はそう信じているようだ。もし実際こんな効能が菖蒲根にあったとしたら大したもんだが、どうもこれは信用が出来そうもない。
渓※[#「くさかんむり/孫」、第3水準1−91−17]《ケイソン》というものがある、日本の学者はこれを Iris 属[#「属」に「ママ」の注記]のアヤメだとしているが、それは誤りで、これもセキショウの一品か他かにほかならない。
海藻ミルの食べ方
海藻のミルは普通に水松(『本草綱目』水草類)と書いてあるが、果たしてそれがあたっているのかどうかはすこぶる疑わしい。中国の昔の学者の書いた原文ははなはだ簡単で、それが果たしてミルであるのか、じつのところよくは判らないのである。また俗に海松とも書いてあるが、これは中国の昔の学者が「水松、状[#(チ)]如[#(シ)][#レ]松[#(ノ)]釆[#(テ)]而可[#(シ)][#レ]食[#(ウ)]」の文に基づいて製した名であろう。
このミルの学名は前によく Codium mucronatum J[#「J」は斜体]. Ag[#「Ag」は斜体]. が使われたが、今日では Codium fragile Hariot[#「Hariot」は斜体](Acanthocodium fragile[#「Acanthocodium fragile」は斜体] Sur.)が用いられている。この種名の fragile は「質脆ク破損シ易イ」ことを意味する。本品は純緑色の海藻で、浅い海底の岩に着生し、三寸ないし一尺ばかりの長さがあって両岐的に多数に分枝し、その枝は円柱状で、質は羅紗《ラシャ》のようである。そしてこのミルの語原は全く不明であるといわれる。
源順《みなもとのしたごう》の『倭名類聚鈔《わみょうるいじゅしょう》』に「海松、崔禹錫《さいうしゃく》食経云、水松状如松而無葉、和名美流」とある。『延喜式《えんぎしき》』内膳司式《ないぜんししき》に「海松二斤四両」とあり、また『万葉集』の歌に「沖辺には深海松《フカミル》採《ツ》み」とあるのをみても、遠い昔に当時既に食用にしたことが判るが、それならそれをどういう風に調理して食したのか詳かでないけれど、昔は凝った料理の一つであったらしい。今ここに近代の食法を次に載せてみる。しかし私自身は一度もこれを食した経験がないので、その食法が分らない。そこで二、三大方の諸氏に教えを乞うたところ、みないずれも親切な垂教を賜ったので、その食法が判明し大いに喜んでいるのである。私も今度幸いにミルに出逢ったら味ってみなければならないと、今からその舌ざわりや味わいやらの想像を画いている。
理学士|恩田経介《おんだけいすけ》君からの所報によれば「私がミルを食べましたのは、志摩半島の浜島でした、あそこでは毎年の棚機《たなばた》にはミルを食べる慣例だとのことでした、食べたのはニク鍋でちょっといためてスミソで食べました、極極若いのだと生マで酢味噌をつけてたべるのがよいとのことです、見たよりもゴソゴソしなかったと思っています、うまいとは思いませんでしたが食べられるものだ位でした」とあった。
理学博士|武田久吉《たけだひさよし》君からの返翰によれば、「御下問の件小生自身何の経験も御座いません」とて、岡村金太郎《おかむらきんたろう》博士の『海藻と人生』と遠藤|吉三郎《きちさぶろう》博士の『海産植物学』とを引用して報ぜられた。
右遠藤博士の『海産植物学』は明治四十四年(1911)に東京の博文館で発行になった書物だが、今それによると「みるヲ食用ニ供シタルハ本邦ニ在リテハ其由来甚ダ遠キモノノ如ク現今却テ之レヲ用ウルコト少ナシ、箋註倭名類聚抄ニ云フ、海松、見延喜臨時大甞祭図書寮玄番寮民部省主計寮大蔵省宮内省大膳職内膳司主膳監等式、又見賦役令万葉集、云々、之レニテ判ズレバ古ヘハみるヲ朝廷ニ献貢シタリシモノナルベシ、古歌ニモみる、みるぶさ、みるめナド多く詠メリ、又昔ヨリみるめ絞リト称シテ此植物ノ形ヲ衣服ノ模様トナシ、或ハ陶器ノ画等ニモ見ルコト今日ニ至ルモ変ラズ其果シテ孰レノ世ヨリ斯クノ如キコト始マリシヤ明カナラズト雖ドモ少クモ千数百年ノ昔ヨリナルベシ、又此ハ海藻ニシテ美術的紋様ニ用イラルルモノノ唯一ノ例ナリ」、また「みる類ヲ食用ニ供シタルハ往古ヨリ行ハレシモノニシテ弘仁式ニ尾張ノ染海松ヲ正月三日ノ御贄《おんべ》ニ供ストアリ而シテ現今本邦ニテ主トシテ用イラルルハみる及ビひらみるノ二者ナリ是等ハ生食セラルルコト稀ニシテ多クハ晒サレテ白色ニ変ジタルヲ乾シ恰モ白羅紗ノ如クナルヲ販売セリ、之レヲ水ニ浸シ三杯酢ヲ以テ食フ或ハ夏期ニ於テ採収シタル時ハ灰乾シトシ又ハ熱湯ヲ注ギテ後蔭乾シトス之レヲ用ウルニハ熱湯ニ投ジテ洗滌スルヲ可トス」と出ている。
なお同じく遠藤博士の『日本有用海産植物』(明治三十六年[1903]博文館発行)にはミルの効用として「ミル、ヒラミル等は淡水と日光とに洒すときは白色の羅紗の如くなる之れを調理して食用とすナガミル、タマミル亦此の如くして可なり但し其産額前二者の如く多からざるのみ」と書いてある。
また明治四十三年(1910)博文館発行の妹尾|秀美《ひでみ》、鐘ヶ江東作、東《ひがし》道太郎三氏の著『日本有用魚介藻類図説』によれば「みる[#「みる」に傍点]の種類は総て四五月より七八月の
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