頃採収し灰乾《はいぼし》となして貯ふ、使用するに際し熱湯に投じて洗滌し吸物又は三杯酢となして食用に供す又採収したるものを淡水にて善く洗ひ晒白して貯蔵する事あり。現今みるを食用に供する事多からざれども、延喜式巻第二十三部民部下交易雑物伊勢国海松五十斤参河国海松一百斤紀伊国海松四十斤、同書巻第二十四主計上凡諸国輪調云々海松各四十三斤但隠岐国三十三斤五両凡中男一人輸作物海松五斤志摩国調海松安房国庸海松四百斤云々とあり、又明月記に元久二年二月二十三日御七条院此間予可儲肴等持参令取居之長櫃一土器居小折敷敷柏盛海松覆松とあれば昔時は貴人も食用に供せられたるならん」「又海藻の種類は多し模様として応用得べきもの少からず然れども古来諸種の工芸品の模様に応用せられたるものは実にみる[#「みる」に傍点]のみなりみる[#「みる」に傍点]は其形状のみならず体色も用ひられてみる[#「みる」に傍点]色といへる緑に黒みある色をも造られたり」とある。
 大正十一年(1922)に東京の書肆内田老鶴圃で発行になった岡村金太郎博士の『趣味から見た海藻と人生』に述べてあるところを抄出してみると、「ミルは今でも少しは食用とし、殊に九州や隠岐の国あたりでは其若いのを喰べる。先年自分は九州の鐘《かね》ヶ崎[牧野いう、筑前宗像郡、海辺の地にダルマギクを産する]で、特に望んで喰わせてもらったが、海から取って来たのをよく洗って、鉄鍋を火にかけて、その上でなまのミルをあぶると、茹菜《ゆでな》のようになるのを、酢味噌などで喰べる工合は、全く茹菜と同じである。昔は今日よりもよほどミルの用途がひろかったとみえて、越後名寄巻十四|水松《みる》の条に「咬《カ》ム時ハムクムクスルナリ生ニテモ塩ニ漬ケテモ清水ニ数返洗フベシ其脆ク淡味香佳ナリ酢未醤《スミショウ》或ハ湯煮ニスレバ却テ硬シテ不可食六七月ノ頃採ルモノ佳ナリ」とある。それから古い書物に海松の貯蔵法があるが、それに「ざっと湯を通し寒の水一升塩一合あはせ漬置くべし色かはらずしてよく保つなり」とある。また灰乾として貯えてもおくとみえる。これを食するのは、その色の美しさと香気とを愛したものであろう。任日上人の句に「蓼酢《たです》とも青海原をみるめかな」とあるのは、自分の考えでは、青海原を蓼醋とみなしてそれに云いかけた洒落であろうと思うが、多分海松は蓼醋などで喰べたものであろう。また其角の句に「海松《みる》の香に松の嵐や初瀬山」とあるのも、このへんのこころであろう。寛永の『料理物語』に「みる さしみ」とあるのは、刺身として喰うというのか刺身のつまとしてというのか、である。
 次に現下我国海藻学のオーソリティー、北海道帝国大学の理学博士山田幸男君からの所報によれば「小生数十年前薩摩の甑島に於てそのスミソアエと致したるものを漁師の家にて馳走になりし事を覚えおり候、又其後これは七八年前かと存候が東京芝、芝園橋付近の銀茶寮とか申す料理屋にて日本料理の献立表に[ミルの吸物]とありしを覚えをり候たゞし此際は惜くも本日は材料が揃わずとの理由とかにて実物を味わずに了い候、これにより少くもスミソあえ及汁のミと致す事はたしかと存じ候尚岡村先生の『海藻と人生』に矢張り九州のスミソアエの事等見えおり候」とあった。
 要するにミルの料理としては、三杯酢かあるいは酢味噌和えかが普通一般の食法であることが知られる。
 文化元年(1804)出版、鳥飼洞斎《とりかいどうさい》の『改正月令博物筌《かいせいがつりょうはくぶつせん》』料理献立欄に[二月(牧野いう、陰暦)吸物]まて貝、みる、わりこせう、[四月吸物]まききすご、みる、[七月吸物]花ゑび、みる、わりさんせう、[九月吸味]御所がき、岩たけ、くるみ、きくな、みる、わさびすみそ、[十月|清汁《すまし》]実くるみ、みる、[十一月吸物]ひらたけ、みる、と出ている。
 ミルクイという介《かい》があって、またミルガイともミロクガイとも称えられ、その学名は Tresus Nattalii Cornad[#「Cornad」は斜体]. である。この介の一端から突出した多肉な水管にミルが寄生し、その状あたかもこの介がミルを食いつつあるように見えるので、それでこの介はミルクイ(ミル喰イ)と呼ばれる。この介はただその水管の肉だけを食用とし、その味がすこぶるうまいところから、これを中国の書物の西施舌《セイシゼツ》(西施は中国古代の美人の名)にあてているが、それが果たしてあたっているのかどうかよく判らない。[補記]昭和二十二年七月二十三日に東京世田谷区、梅ヶ丘小学校の教員川村コウ女史が相州江ノ島の海浜で、漁夫の鰯網《いわしあみ》へ着いて揚って来たミルを採集してきて恵まれたので、早速これを清水で洗い、取りあえずその新鮮なのを先ず生食してみた。口ざわりは脆くてシャギシャギはするが塩味があって存外食べられる。そして海藻の香はあるが、別に特別な味はない。次いでこれを酢醤油に漬けて味わってみたが、そうするとたちまちミルが多少縮め気味で硬わばり、かえって生食するよりは不味を感ずる。それはちょうど『越後名寄《えちごなよせ》』に記してある通りである。このように私は生まれて初めてミルを味わってみたが、あまり感心する品ではなく、まず昔からのことを回想し趣味としてこれを口にする程度のものである。
 ミルの語原は不明だといわれているが、私の愚劣な考えでは、それはあるいはビルもしくはビロから転訛したものであろうと思われる。すなわち生鮮なミルを静かに振ってみると弾力があって、ビルビルビロビロとするから、そのビルあるいはビロが音便によってついにミルになったのではなかろうかと想像するが、どんなもんだろうか。
 ミル属(Codium)には多くの品種があって、いずれも食用になるのであろう。昭和九年(1934)六月に東京の三省堂で出版した岡田|喜一《よしかず》君の『原色海藻図譜』によれば、次の種類が原色写真で出ているからそれらを知るには極めて便利である。すなわちハイミル、ヒゲミル、ネザシミル、サキブトミル、ナガミル、クロミル、ミル、モツレミル、タマミル、ヒラミル、コブシミル、ならびにイトミルの十二品が挙がっているが、その中でナガミルは岡山でクヅレミル、阿波でサメノタスキ、相模でアブラアブラというとある。同じく昭和九年十月に東京の誠文堂で発行した東《ひがし》道太郎君の『原色日本海藻図譜』にはナガミルの条下に「邦産十数種種のミル中最も長大なものであって全長四十五尺に達するものもある」、「九州より千葉県に至る太平洋岸に産する、殊に湾入せるところの四五尋の深所に多い、真珠貝の養殖場に繁殖し長大なる体は真珠貝を覆い死に至らしむる事があると云われて居る」と書いてある。ヒラミルは国によりラシャノリといわれる。

  楓とモミジ

 中国の有名な詩人である杜牧《とぼく》が詠じた「山行」の詩に

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遠[#(ク)]上[#(レバ)][#二]寒山[#(ニ)][#一]石径斜[#(ナリ)]、白雲生[#(ズル)]処有[#(リ)][#二]人家[#一]、
停[#(メテ)][#レ]車[#(ヲ)]坐[#(ロニ)]愛[#(ス)]楓林[#(ノ)]晩、霜葉[#(ハ)]紅[#(ナリ)][#レ]於[#(ヨリモ)][#二]二月[#(ノ)]花[#一]、
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 というのがあって、ふるくから普く人口に膾炙している。
 諸君御覧の通りこの詩中に楓がある。日本人はこれを Acer すなわち Maple のカエデすなわちモミジであるとして疑わず、日本の詩人はみなそう信じている。しかし豈《あに》はからんや楓はけっしてカエデすなわちモミジではなく、全然違った一種の樹木で、カエデとはなんの縁もない。しかるにここに興味あることは、この楓をカエデとする滔々たる世の風潮に逆らってそれはカエデではないと初めて喝破し否定した貝原益軒があって、宝永六年(1709)に出版になった彼の著『大和本草』に「本邦楓ノ字ヲアヤマリテカヘデトヨム」と書き、また「楓ヲカヘデト訓スルハアヤマレリカヘデハ機樹也」とも書いている。しかし楓をカエデではないと否定する益軒の卓見には賛成だが、翻ってこの楓を古名ヲガツラ、すなわち今日いうカツラ(Cercidiphyllum japonicum Sieb[#「Sieb」は斜体]. et Zucc[#「et Zucc」は斜体].)とするのには不賛成であって、楓はけっしてカツラではない。また益軒はカエデを機樹と書いているが、その由るところの根拠全く不明であり、とにかく機の字にはカエデの意味はない。
 楓はマンサク科に属し Liquidambar formosana Hance[#「Hance」は斜体] の学名を有する落葉喬木である。その葉は枝に互生して三裂し、実は球状で柔刺があり毬彙《イガ》の状を呈している。中国ではこの実を焚いて香をつくるとある。またこの樹の脂を白膠香《ビャクキョウコウ》というともある。
 楓は台湾に多く生じまた中国にも産するが、その他の国には見ない。秋になるとカエデと同様紅葉するが、しかしカエデほど優美ではない。陳※[#「温」の「皿」に代えて「俣のつくり−口」、第4水準2−78−72]子《ちんこうし》の『秘伝花鏡《ひでんかきょう》』に「一タビ霜ヲ経ル後ニハ、葉ハ尽ク皆赤シ、故ニ丹楓ト名ヅク、秋色ノ最モ佳ナル者、漢ノ時殿前ニ皆楓ヲ植ユ、故ニ人、帝居ヲ号シテ楓宸ト為ス」と叙してある。
 楓はその枝条が弱く、よく風に吹かれて揺ぐから楓の字が書いてあるといわれている。そうするとこの樹の和名をカゼカエデとでもしたらどんなもんだろう。いま植物界では楓の字音フウを和名としているが、何んだかフウはフウはして間が抜けたようであまり面白くない。が、もう台湾も中国に還して日本のものではないから、そんな木の和名はどうでもよいワ、イヤそう捨て鉢にいうもんじゃない。小石川植物園には昔御薬園時代かに来た木も今なお現に生きているし、また今日では諸処にあった木も伐られてそれが大いに残り少なにもなっているから、成るべくはその呼び名も好くして愛護してやるべきだ。
 この楓は日本には産しないから、これをカエデすなわちモミジとするのは無論非である。日本の詩人はカエデの場合に常にこの楓の字を取り上げるとなるとたちまち詩作の上で支障を生じ大いに困ることだと思う。何んとなれば日本のカエデを表わす一字がないからである。しかるに上に書いたように貝原益軒はカエデに機の一字を用いているが、これはもとより怪しい字面でとても詩作などには用いることは出来ない。
 日本の学者は『救荒本草』にある槭樹をカエデにあてているが、これは無論あたっていない。なぜなれば日本のカエデは日本の特産で絶えて中国にはないからである。すなわち中国にないから中国の名がないのが当然だ。そうすると機の字も落第、槭の字も落第、詩人は立往生で死人の如くなるのだ。
 また我国の昔の学者はカエデ(蝦手の意)を表わす漢字名として鶏冠木一名鶏頭木の字面を用意したのだが、これは無論漢名すなわち中国名ではない、すなわちそのカエデの葉形が鶏の冠に似ているというので、そこでこの字を書いたものである。

  ※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]蘭と※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]

 中国の書物にはよく※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]蘭《ケイラン》の名が出ているが、この※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]蘭と称えるのは今のいわゆる一茎九華と呼ぶ蘭で、陳※[#「温」の「皿」に代えて「俣のつくり−口」、第4水準2−78−72]子《ちんこうし》の『秘伝花鏡《ひでんかきょう》』には「※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]蘭、一名ハ九節蘭、一茎八九花ヲ発ス」(漢文)と書いてあるものである。
 この一茎九華なる※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]蘭は中国特産の蘭品である、すなわちいわゆる東洋蘭の一
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