立テ地衣《ヂゴケ》ノ如キ細葉簇生ス深緑色ナリ採リ貯ヘ久シクシテ乾キタル者水ニ浸セバ便チ緑ニ反リ生ノ如シ是物理小識ノ千年松ナリ
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と述べている。
また『紀伊続風土記《きいぞくふどき》』「高野山之部」に万年草が出ていて次の通り書いてある。
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万年草
古老伝に此草は当山の霊草にて遼遠に在て厥死活弁じがたきをば此草を水盆に浮るに生者なれば青翠の色を含み若没者なれば萎めるまゝなりとぞ今現に検するに御廟の辺及三山の際に蔓生す毎年夏中是を摘みて諸州有信の族に施与の料とせり其長四五寸に過ぎず色青苔の如し按ずるに後成恩寺関白|兼良《かねら》公の尺素往来《せきそおうらい》に雑草木を載て石菖蒲、獅子鬚、一夏草、万年草、金徽草、吉祥草といへり爾者此草当山のみ生茂するにもあらず和漢三才図会に本草綱目云玉柏生石上如松高五六寸紫花人皆置盆中養数年不死呼為千年柏万年松即石松之小者也(中略)五雑組《ござつそ》云楚中有万年松長二寸許葉似側栢蔵篋笥中或夾冊子内経歳不枯取置沙土中以水澆之俄頃復活或人云是老苔変成者然苔無茎根衡嶽志所謂万年松之説亦粗与右同紀州高野深谷石上多有之長二寸許無枝而梢有葉似松苗[牧野いう、此辺『倭漢三才図会』の書抜きだ]といひ和語本草にも玉柏石松を載たれども其味のみを弁じて貌姿を論せず良安《りょうあん》本草綱目の万年松を万年草として当山万年草に霊異あることを草性を知らずといへるは嗚呼の論のみ[牧野いう、『紀伊続風土紀』の著者の此言かえって嗚呼の論のみだ且万年草を霊草と云う笑うべきの至りである]彼万年松は紫花あり此万年草花なし爾者雑組衡嶽志にいふ万年松は別の草ならん尺素往来にいふ万年草は当山の霊草ならん又当山にても当時蔓延滋茂せるは彼万年松の類にて右老伝の霊草は御廟瑞籬の内に希に数茎を得といふ説もあれば尚其由を尋ぬべし
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また同書物産の部は小原良直《おばらよしなお》(八三郎)の書いたものだがその中に左の記がある。
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千年松《センネンサウ》(物理小識○高野山にて万年草といふ他州にては玉柏を万年草といふ故に此草を高野の万年草といひて分てり)
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高野山大師の廟の辺及三山の際に蔓生す乾けるものを水中に投ずれば忽蒼翠に復す故に俗間収め貯へて旅行の安否を占ふ
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この高野のマンネンソウは蘚類の一種で Climacium japonicum Lindb[#「Lindb」は斜体]. の学名を有するもので、国内諸州の深山樹下の地に群生している。そして高いものは三寸ほどもある。
岩崎灌園《いわさきかんえん》の『本草図譜《ほんぞうずふ》』巻之三十五に二つのコウヤノマンネングサの図が出ているが、その上図のものはハゴノコウヤノマンネングサ(一名フジマンネングサ、コウヤノマンネングサモドキ、ホウライソウ)すなわち Climacium ruthenicum Lindb[#「Lindb」は斜体].(=Pleuroziopsis ruthenica[#「Pleuroziopsis ruthenica」は斜体] Lindb.)で、その下図のものが本当のコウヤノマンネングサすなわち Climacium japonicum Lindb[#「Lindb」は斜体]. である。大沼宏平君が同書の学名考定でこのコウヤノマンネングサの図をミズスギすなわち Lycopodium cernuum L[#「L」は斜体]. と鑑定しているのはまさしく誤鑑定で、その図の枝の先端が黄色に彩色してあるのは、これは疑いもなく枝先きが枯れたところを現わしたもので、それはけっしてその胞子穂ではないのである。
ズット以前のことであるが、すこぶる頭の働いた人があって、このコウヤノマンネングサを集め、その乾いたものを生きたときのように水で復形させ、これを青緑色の染粉で色を着け、これを一束ねずつ小さい盆栽とし、それを担って諸国を売り歩き大いに金を儲けたことがあった。そのときその行商人の口上はなんといったか今は忘れた。
近代の学者は時とすると、この草をコウヤノマンネンゴケとしてあるが、じつはこれはコウヤノマンネングサが本当である。またコウヤノマンネンソウとしたものもある。
コンブとワカメ
日本では中国の昆布《コンブ》の漢名をもととして、今から一千余年も前の昔にはこれをヒロメあるいはエビスメ(深江輔仁の『本草和名』)と呼び、現代ではその昆布を音読してコンブといってそれが通称となっている。そしてこのコンブは海藻 Laminaria 属[#「属」に「ママ」の注記]中の種類を総称していることになっている。じついうとこの中国人の書物に書いてある昆布は、けっしていま日本人が通称しているコンブ(コブとも略称せられる。村田|懋麿《しげまろ》氏の『鮮満植物字彙』にもこの誤りを敢てしている)そのものでは断じてない。では昆布の本物は何だというと、それはじつはワカメ(Undaria pinnatifida Suring[#「Suring」は斜体].)の名である。ゆえに和名のワカメをこの漢名の昆布とすれば正しいこととなる。そして我国の学者は東垣《とうえん》の『食物本草《しょくもつほんぞう》』にある裙帯菜《クンタイサイ》をワカメだとし前の村田氏の『鮮満植物字彙』にもそうしているが、これは間違いでこの裙帯菜はけっしてワカメそのものではなく、無論何か別の緑色海藻すなわち緑藻類である。右の東垣の『食物本草』にある裙帯菜の記文は「裙帯菜ハ東海ニ生ズ、形チ帯ノ如シ、長サハ数寸、其色ハ青シ、醤醋ニテ烹調フ、亦※[#「くさかんむり/俎」、158-7]ト作スニ堪ユ」である、すなわち長さが数寸あって帯のようで青色を呈し食えるとのことだから、あるいはアオサの一種かもしれない。
いま通称している Laminaria のコンブ(non 昆布)の本当の漢名、すなわち本名は海帯であって、今日中国ではこれを東洋海帯《トンヤンハイタイ》ともまた単に海帯《ハイタイ》とも称えられている。この海帯こそ吾らが通称しているコンブすなわちコブの正しい漢名である。そして従来日本の学者はこの海帯をアラメ(Eisenia bicyclis Setchell[#「Setchell」は斜体])としているのは間違いで、上の村田氏の書にもそれを誤っている。朝鮮ではワカメのことを昆布と書くそうだが、これは正しくてけっしてその名実を取り違えているのではない。中国の梁の学者|陶弘景《とうこうけい》が昆布についていうには「今|惟《タダ》高麗ニ出ヅ、縄ニテ之レヲ把索シ巻麻ノ如ク黄黒色ヲ作ス、柔靱ニシテ食フベシ」とある。唐の陳蔵器《ちんぞうき》という学者は「昆布ハ南海ニ生ズ、葉ハ手ノ如ク、大サハ薄キ葦ニ似テ紫赤色ナリ」といっている。東垣の『食物本草』には「人取テ酢ニテ拌シ之レヲ食ヒ以テ※[#「くさかんむり/俎」、158-17]ト作ス」と書いてある。
今一般にいっているコンブは既に前にも書いたように、昔はこれをヒロメともエビスメとも名づけていた。もし今日誤称せられているコンブの名を一般人が間違いであると気づいて、その呼び名を改訂し正しきにかえさねばならんという気運が万一にも向い来たことがあったとすれば、これを右ようにヒロメ(幅広い海藻の意)と呼べば古名復活にもなって旁《かた》がたよろしい。が、かくも深くかくも強く浸潤せる腐り縁のコンブの名は容易に改め得べくもない。
今海藻学を専門としている学者でさえも、昆布をコンブと呼んでいるこの間違いを清算することが出来ず、その著わされた海藻の書物には、みな一つとしてこの誤謬を犯していないものはない。どうも病が膏肓《こうこう》[#「膏肓《こうこう》」は底本では「膏盲《こうこう》」]に入っては大医も匙を擲たざるをえないとはまことに情けない次第だ。
声を大にし四方を脾睨《へいげい》して呼ぶ。海帯がコンブであるゾヨ! 昆布がワカメであるゾヨ! 海帯はアラメでないゾヨ! 裙帯菜はワカメでないゾヨ!
『草木図説』のサワアザミとマアザミ
飯沼慾斎《いいぬまよくさい》の著『草木図説《そうもくずせつ》』巻之十五(文久元年[1861]辛酉発行、第三帙中の一冊)にその図説が載っているサワアザミの図と、その直ぐ次に出ているマアザミの図とは、それが確かに前後入り違っていることはこれまで誰も気のついた人は全くなかった。これはサワアザミの説文に対して在る図を移してマアザミの説文へ対せしめておけばよろしく、またマアザミの説文に対して在る図を移してサワアザミの説文へ対せしめておけばそれでよろしい。そうすればここに初めてサワアザミの説文がサワアザミの図に対して正しくなり、またマアザミの説文がマアザミの図に対して正しくなって、そこで両方とも間違いを取り戻して正鵠を得たことになる。そしてこの図の入り違いは多分偶然に著者がその前後を誤ったものであろう。今かく正してみると、従来植物界で用い来ているサワアザミとマアザミとの和名の置き換えを行なわねばならない結果となる。すなわち Cirsium Sieboldi Miq[#「Miq」は斜体]. はマアザミではなくてサワアザミ一名キセルアザミとせねばならなく、また C. yezoense Makino[#「Makino」は斜体] はサワアザミではなくてマアザミと改めねばならぬのである。
近江の国伊吹山下の里人が常に採って食用にしているといわれる右のマアザミの実物を知りかつその形状を見たく、よって当時京都大学に在学中の遠藤善之君を煩わし、実地についてそのマアザミを捜索してもらった。同君は親切にも私のためにわざわざ京都から二回も伊吹山方面へ出掛けて探査し、時にそれが伊吹山で見つからないので更に進んで美濃方面に行きついに伊吹山裏の方の山地においてこれを見出し、地元の人にそのマアザミの方言をも確かめ、そしてそこで採集した材料を遠く東京へ携帯して私に恵まれた。私は嬉しくもその渇望していた生本現物を手にしこれを精査するを得、初めてそのマアザミの形態を詳悉することが出来、大いに満足してこのうえもなく悦び、もってひとえに遠藤君の厚意を深謝している次第である。
マアザミとは真《マ》アザミの意であろう。この種は往々家圃に栽えて食料にするとあるから、このマアザミはあるいは菜《ナ》アザミというのが本当ではなかろうかと初めは想像していたが、しかしそれはそうではなくてやはりマアザミがその名であった。このマアザミの葉は広くて軟らかいからその嫩葉は食用によいのであろう。これに反してサワアザミの方は葉が狭く分裂して刺が多くかつその質が硬いから食用には不向きである。ゆえに『草木図説』にもなんら食用のことには触れていない。そしてこのサワアザミは山麓原野の水傍あるいは沢の水流中などによく生えているが、山間渓流の側などにはあまり見ない。
小野蘭山《おのらんざん》の『本草綱目啓蒙《ほんぞうこうもくけいもう》』巻之十一「大薊小薊」の条下に「鶏項草ハ別物ニシテ大小薊ノ外ナリ水側ニ生ズ陸地ニ生ズ和名サワアザミ葉ハ小薊葉ニ似テ岐叉多ク刺モ多シ苗高サ一二尺八九月ニ至テ茎頂ニ淡紫花ヲ開ク一茎一両花其花大ニシテ皆旁ニ向テ鶏首ノ形チニ似タル故ニ鶏項草ト名ク他薊ノ天ニ朝シテ開クニ異ナリ」と述べてサワアザミが明らかに書かれている。
サワアザミに右のようにかつて我が本草学者があてている鶏項草《ケイコウソウ》は宋の蘇頌《そしょう》の著わした『図経本草《ずきょうほんぞう》』から出た薊の一名であるが、これは単にその文字の意味からサワアザミにあてたもので、もとよりあたっていない別種の品であることは想像するに難くない。そして『本草綱目』で李時珍がいうには「鶏項、其茎ガ鶏ノ項ニ似ルニ因ルナリ」(漢文)とある。すなわち項はいわゆるウナジで後頭のことである。しかるに我国の学者は往々これを誤って鶏|頂《チョウ》草と書いているの
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