てたちまち我が蒙の扉が啓らきくれ、あたかも珠を沙中に拾ったように喜んだ、同君の語るところによれば、それが享保十三年(1728)二月出版、鷹橋義武《たかはしよしたけ》(日光山御幸町の人で治郎左衛門と称する)の『日光山名跡誌《にっこうさんめいせきし》』に日光物としての条下に千手雁皮《せんじゅがんぴ》が挙げられており[この書私も所蔵しているが私のは明和元年甲申仲秋改版のものである]天保八年(1837)に出版になった植田孟縉《うえだもうじん》の『日光山志《にっこうさんし》』にも出ているとのことであった。私はこれまで折りにふれてはこの『日光山志』を繙くことがあったのだが、ただ拾い読みをするばかりの罰でついにこの草に関する記事を見落してしまっていた。そこで早速に同書を閲覧してみたらその巻之四に「千手原《せんじゅがはら》 是は千手崎《せんじゅがさき》より続き赤沼原《あかぬまがはら》[牧野いう、今はアカヌマガワラというのだが、往時はかくアカヌガワラと呼んでいたのか]の南西によれり広さ凡一里半余も有ける由茲は徃反する処にあらねば知れるものすくなし千手《せんじゅ》がぴんと称する草花の名産を生ず」と出ている。すなわちセンジュガンピの名は日光千手崎に由来していることを偶然に伊藤君のお蔭で知ることが出来たわけで、私は偏えに同君に感謝している次第である。しかしこの和名をなんという人が初めてつけたか、それがなお私には不明である。
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右の千手崎《せんじゅがさき》は延暦三年四月に勝道上人《しょうどうじょうにん》が湖上[中禅寺湖の]で黄金の千光眼《せんこうがん》の影向《ようごう》を拝し玉ひしゆゑ爰に千手大士を創建《そうこん》し玉ひ補陀楽山千手院《ふだらくさんしんじゅいん》と名付玉ふたといふことである。
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前述拙著『牧野日本植物図鑑』せんじがんぴの文末「せんじゅハ其意味不明ナリ」を取り消し、今これを「野州日光山ノ中禅寺湖畔ナル千手崎ニ産スルヨリ云ヘリ」と訂正する。
片葉のアシ
世に片葉《カタハ》ノ葦《ヨシ》と呼ばれているアシがあって、この名は昔からなかなか有名なものであり、いろいろの書物にもよく書いてあって、世人はこれを一種特別なアシ(すなわちヨシ)だと思っている。しかしそれは果たして特別な一種のアシであろうか。今私はこれを判決してこのいわゆる片葉の葦は別に何物でもなく、ただ普通のアシそのものであることをここに公言する。そしてそれは単にその葉が一方から吹き来る風のイタズラで一方を指しているにすぎなく、畢竟この風さえなければ片葉ノ葦は出来っこがない。すなわちその葉が風に吹かれるとその風が葉面に当たってその葉を一方に押しやる。そうするとその長い葉鞘が綟《よ》れてこの葉がこんな姿勢をとるのである。風が東から来ればその葉は揃って西を指し、風が北から来れば同じくその葉は一様に南を指す。葉鞘が拗《ねじ》れるので直ぐには原位に復せずそのままになっている。ゆえにアシのあるところはいつでもどこでもこの片葉のアシが出現して何にも珍らしいことではない。単にこれが自然に出来るばかりでなく、いつでも人の手によってもそれをこしらえ得るのはやすやすたることである。
『紀伊国名所図会《きいのくにめいしょずえ》』二之巻海部郡の部(文化八年発行)に「片葉《かたは》の蘆《あし》 和歌津《わかつ》や村の北の入ぐちにあり是また蘆戸《あしべ》の遺跡也すべて川辺のあしは流につれて自然と片葉となるものあり又其性を受て芽いづるより片葉蘆と生ずるものもあらん此地もいにしへは入江あるひは流水のところにて其性をつたへて今に片葉に生ずるか風土の一奇事と云べしつのくに鵜殿《うどの》のあしと同品なり」と書いてある。そしてその片葉となるのは一方へ一方へと流れる水の性を受けて生ずるように考え違いをしている。
『摂津名所図会《せっつめいしょずえ》』巻之四には「片葉蘆《かたはのあし》 按ずるに都《すべ》て難波は川々多し淀川其中の首たり其岸に蘆|生繁《おいしげり》て両葉《もろは》に出たるも水の流れ早きにより随ふてみな片葉《かたは》の如く昼夜たへず動く終に其性を継て跡より生《おい》出るもの片葉の蘆多し故に水辺ならざる所にもあり難波《なには》に際《かぎら》ず八幡淀伏見宇治《やはたよどふしみうぢ》等にも片葉蘆多し或人《あるひと》云《いはく》難波は常に西風烈しきにより蘆の葉東へ吹靡きて片葉なる物多しといふは辟案なり」と記してあるが、この辟案[牧野いう、辟は僻と同義]だといっている方がかえって辟案で、風のために片葉の蘆が出来るというのがかえって正説である。
宝永四年(1707)出版の『伊勢参宮按内記《いせさんぐうあんないき》』巻之下には「浜荻《はまおぎ》(三津村の南の江にあり) 片葉の芦《あし》の常の芦にはかはりたる芦なり是を浜荻といへり此辺り田にすかれて今はすこしばかりの浜荻田間にのこれり」とある。
宝永六年(1709)発行の貝原益軒《かいばらえきけん》の『大和本草《やまとほんぞう》』付録巻之一に「伊勢ノ浜荻《はまおぎ》ハ三津村ノ南ノ後ロニアリ片葉ノ芦《アシ》ニシテ常ノ芦ニカハレリ」と記してある。
『神都名勝誌《しんとめいしょうし》』巻之五には「浜荻《はまをぎ》 天狗石の南壱町許、道の右にあり。土俗、片葉の芦と云ふ。四方に、石畳を築けり」と記しかつ片葉に描いた浜荻の図が出ている。また同書には「往古は此の辺、三津港よりの入江にて、総べて、芦荻の洲なりきといふ。近世、堤防を設けて、潮水を塞ぎ、数町の田圃を開懇せり。而して、浜荻の芦地を存せむとて、僅に、数坪の所に、蘆荻を植ゑたり」とも述べてあるが、この末句の「植ゑたり」とは穏やかでなく、これはよろしく「残せり」とすべきであろう。
『伊勢参宮名所図会《いせさんぐうめいしょずえ》』巻之五には「浜荻《はまをぎ》三ツ村の左の方に古跡あり里人の云|片葉《かたは》にて常にかわりけるを此辺にては浜荻といふとて今は僅ばかり田の中に残れるを云或云是れ大に誤れり此国の人のみ芦をさして浜荻といへるは古き諺にて即国の方言なれば伊勢の浜辺に生《おい》たる芦は残らず浜荻と云べし古跡と云はあるべからず此歌に明らかなり
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筑波集連歌
物の名も所によりてかわりけり 難波の芦はいせのはま荻 救済法師
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又按ずるに芦を荻といふ事至て上古にはいづくにもいひし事也此国にかぎらず詩作などには蘆荻《ろてき》とつゞけて一物也其余証拠略之
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万葉
神風や伊勢の浜荻折ふせて旅寝やすらん荒き浜辺に 読人不知」
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と書いてある。
私は先年この三津《みつ》の地に行って、今そこの名所田間に少しばかり残してあるいわゆる浜荻を親しく見たことがあったが、この地点は石を畳んで平たくしその周辺およそ一畝歩ばかりの田には浜荻が生活している。ここはこの村の農某の持地であるが、昔からの浜荻のある名所というので持主は特にこの地点へは鍬も入れず稲も作らず、経済的に損をしてまでも遺しているのはまことに殊勝な心がけである。
右地に繁茂しているいわゆる浜荻は、なんら普通のアシすなわちヨシ(Phragmites communis Trin[#「Trin」は斜体].=Arundo Phragmites[#「Arundo Phragmites」は斜体] L.)と異なった種類のものではない。その浜荻の生えている場所は今は水田の一部となっているが、昔は無論この辺一帯が広い蘆原であったことが想像に難くない。
浜荻はアシすなわち蘆のふるい別名で、今日ではこの名は既にすたれて、ただ書物の中に残っているだけとなった。
アシはアシが本名であるが、これを悪しに擬し、ヨシを善しに通わせ縁起を担いでそういったもんだ。そしてこのアシの繁茂している原をばアシハラとはいわずに普通ヨシハラと呼んでいる。かの東京で遊廓のあった地を吉原と呼んでいたが、そこはもとヨシの生えていた田圃であった。
アシに対する中国の名にはまず三つある。すなわちアシの初生のもの、すなわち食うべき蘆筍の場合のものを葭[#「葭」に傍点]といい、なお十分に秀でず嫩い時を蘆[#「蘆」に傍点]といい、十分に成長したものを葦[#「葦」に傍点]といい、葦はすなわち偉大を意味するといわれる。
高野の万年草
『紀伊国名所図会《きいのくにめいしょずえ》』三編巻之六(天保九年[1838]発行)高野山の部に
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万年草《まんねんそう》 御廟の辺《ほとり》に生ず苔《こけ》の類《たぐひ》にして根蔓をなし長く地上に延《ひ》く処々に茎立て高さ一寸|許《ばかり》細葉多く簇《むらがり》生《しょう》ず採り来り貯へおき年を経といへども一度水に浸せば忽《たちまち》蒼然《そうぜん》として蘇《そ》す此草漢名を千年松といふ物理小識[牧野いう、此小識はショウシと訓む]に見えたり俗に旅行の人の安否を占《うらな》ふに此艸を※[#「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1−88−72]水に投じ葉開けば其人無事也|凋《しぼ》めば人|亡《な》しといふとぞ又日光山の万年艸は一名万年杉また苔杉などいひ漢名玉柏一名玉遂また千年柏といひて形状《かたち》と異なり混ずべからず
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と書いてある。
貝原益軒の『大和本草《やまとほんぞう》』巻之九(宝永六年[1709]発行)には
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万年松 一名ハ玉柏本草苔類及|衡嶽志《しょうがくし》ニノセタリ国俗マンネングサト云鞍馬高野山所々ニアリトリテ後数年カレズ故ニ名ヅク
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とある。
小野蘭山《おのらんざん》の『大和本草批正《やまとほんぞうひせい》』(未刊本)には
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万年松(玉柏ノ一名ナリ) 玉柏ハ日光ノ万年グサ一名ビロウドスギト云石松ノ草立ナリ此ニ説ク形状ハ高野ノ万年グサ物理小識ノ千年松ナリ諸山幽谷ニ生ズ高野ヘ至モノ必ラズ釆《トリ》帰ル山下ニテモ此草ヲウル其状苔ノ如シ高一寸許葉スギゴケノ如シ数年過タルモ水中ニヒタセバ新ナル如シ
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と述べてある。
寺島良安《てらじまりょうあん》の『倭漢三才図会《わかんさんさいずえ》』巻之九十七(正徳五年[1715])には
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まんねんぐさ 玉柏 五遂 千年柏 万年松 俗云万年|草《クサ》 按ズルニ衡嶽志ニ謂ユル万年松ノ説亦粗ボ右ト同ジ紀州吉野高野ノ深谷石上多ク之レアリ長サ二寸許枝無クシテ梢ニ葉アリテ松ノ苗ニ似タリ好事《コウズ》ノ者之レヲ採テ鏡ノ奩《ス》[牧野いう、奩ハ字音レン、鏡匣《カガミバコ》である]ニ蔵メテ云ク霊草ナリ行人ノ消息《アリサマ》ヲ知ラント欲セバ之レヲ※[#「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1−88−72]水[牧野いう、※[#「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1−88−72]は字音ワン、鉢、椀、皿である]ニ投ジテ之レヲトフ葉開ケバ即チ其人存シ凋《シボメ》バ即チ人亡キ也ト此言大ニ笑フベシ性水ヲ澆ゲバ能ク活スルコトヲ知ラザレバナリ
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と書いてある。
次に享保十九年(1734)刊行の菊岡沾涼《きくおかせんりょう》の『本朝世事談綺《ほんちょうせじだんき》』巻之二には
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万年草《まんねんそう》、高野山大師の御廟にあり一とせに一度日あってこれを採と云此枯たる草を水に浮めて他国の人の安否を見るに存命なるは草。水中に活《いき》て生《おい》たるがごとし亡したるは枯葉そのまゝ也
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とある。
次に小野蘭山《おのらんざん》の『本草綱目啓蒙《ほんぞうこうもくけいもう》』巻之十七(享和三年[1803]出版)には、玉柏(マンネングサ、日光ノマンネングサ、マンネンスギ、ビロウドスギ)の条下に
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又別ニ一種高野ノマンネングサト呼者アリ苔ノ類ナリ根ハ蔓ニシテ長ク地上ニ延ク処処ニ茎
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