A明治二十五年矢田部教授が大学を非職になった時同時に大学の職を退き、後ち東京高等師範学校の教員となっていた)がこれを明治十八、九年(1885−6)頃に相州箱根山で採って、それを明治二十年(1887)三月発行の『植物学雑誌』第一巻第二号で「又同駅[牧野いう、箱根駅]ヨリ三町も熱海道ヘ出タル処ニひめあすなろう[#「ひめあすなろう」に傍線][牧野いう、普通のあすなろ[#「あすなろ」に傍線]でこれをかくひめあすなろうと云うは誤りだ]一本(駅ヨリ行ク時ハ左側)アリ是モひめあすなろう[#「ひめあすなろう」に傍線]ナレバ別ニ面白キコトモナシトテ過行カバソレギリナリシガ其時思フニ縦令ひめあすなろう[#「ひめあすなろう」に傍線]ニモセヨ植物ノ散布ヲ調ブル時ノ為ニハ入用ナレバ一枝ヲ採ラント立寄リシニ葉ノ裏ニ二又ヅヽ二枚ヲ出セシモノヽ別ニ葉モ花ラシキ者モナキ寄生品ヲ見出セリ、アレハあすなろう[#「あすなろう」に傍線]ノ葉ノ変化物ナラント云ヘリ当時余モ葉ノ変物ナルヤ全ク一種ノ寄生物ナルヤヲ確定スル能ハザリシガ其後再ビ箱根ニ赴タル時前述ノ木ト今少シ駅ニ近キ処ノ右側ノ小林中ニテ同物ヲ得タリ此度ハ其生ズル処ハ葉ノミニ限ラズ枝ニモ幹ニモ生ゼリ而シテ其全ク一種ノ寄生植物ニシテ年々新枝ヲ出ス頃ニハ前ニ栄ヘシ枝ハ枯レ行クモ全ク枯レ尽ルコトナキ多年生本ナルコトヲ見出セリ、而シテ子房ノ様ナルモノヲ発見セリ(此植物ニ付テハ他日再述ブルコトアルベシ)」と書いてある。しかし同君はそれを菌類とは気づかず、何か寄生の顕花植物だと想像し、前記のように「子房ノ様ナルモノモ発見セリ」と書いている。
 次で白井光太郎博士が明治二十二年(1889)七月発行の同誌第三巻第二十九号でさらに詳細にこれを図説考証した。その時に同博士はこれを一種の寄生菌だと断定し、それを Caeoma 属[#「属」に「ママ」の注記]の種類であろうと考えられた。そしてこれにアスナロノヒジキなる新称をあたえ、「此物和名なし依て仮に之れをあすなろのひじき[#「あすなろのひじき」に傍線]と名付けたり此名は伊豆新島の方言にひのきばやどりき[#「ひのきばやどりき」に傍線]をつばきのひじき[#「つばきのひじき」に傍線]といへるを思ひて其の形の稍似たるより名付たるなり但し此の物は其の形やどりぎ[#「やどりぎ」に傍線]に似たるといえども其の性質全くやどりぎ[#「やどりぎ」に傍線]と異なり寄生菌の為めに起る一種の樹病なり之れをあすなろ[#「あすなろ」に傍線]のやどりき[#「やどりき」に傍線]といはずしてひじき[#「ひじき」に傍線]といへるはこれが故なり而して此のひじき[#「ひじき」に傍線]状をなしたる物は寄生菌の為に異常の発育をなしたるあすなろ[#「あすなろ」に傍線]の枝なり独逸にて此類の病を hexenbesen と名付く」と書かれた。
 ここに面白い私の巧名ばなしがある。それはそのアスナロノヒジキを相州箱根で採ったのは、右の大久保三郎君よりは私が一足先きであったことである。すなわちそれは明治十四年(1881)五月に私は東京からの帰途この箱根を通過した。時に私の年は二十歳であった。そしてその峠のところで尾籠《びろう》な話だが偶《たまた》ま大便を催したので、路傍の林中へはいって用を足しつつそこらを睨め回していたら、ツイ直ぐ眼前の木の枝に異形な物が着いているのを見つけた。用便をすませて早速にその枝を折り取り標品として土佐へ持ち帰り、これを日本紙の台紙に貼付しておいた。後ち明治十七年(1884)になって再び東京へ出たとき、またそれを他の植物の標品と一緒に持参した。しかし久しい前のことで今その標品はいずれかへ紛失して手許に残っていないのが残念である。すなわちこのアスナロノヒジキはかくして私が初めてこれを箱根で採ったのである。大久保君が同山で採ったのはそれより六[#「六」に傍点]、七年[#「七年」に傍点]も後ちで明治十八、九年頃であったのである。
 このアスナロノヒジキは一種の寄生菌、すなわちアスナロの害菌で、そのもとの学名 Uromyces deformans Berk[#「Berk」は斜体]. et Broom[#「et Broom」は斜体] は初めてかのチャレンジャー航海報告書にその図説が発表せられたのである。すなわちその原標品は同船の採集者が、我が日本で採集し持ち帰ったものだ。西暦一八八七年我が明治二十年に発行になった英国の Journal of the Linnean Society 第十六巻に右の図(記事も共に)が載っているので、今これを写真に撮りここに転載した。
 この菌はまたアスナロに近縁異属のクロベ一名ネズコすなわち Thuja Standishii Carr[#「Carr」は斜体].(=Thuja japonica[#「Thuja japonica」は斜体] Maxim.)にも寄生するのだが、この樹のものは瘠小で緑色を呈しすこぶる貧弱な姿を呈している。私はこれをクロベヒジキと新称し、その学名を Caeoma deformans Tubeuf[#「Tubeuf」は斜体] var. gracilis Makino[#「Makino」は斜体], var. nov.(Body smaller, slender, loosely ramose, green.)と定めたがこれは稀品であって、私はこれを野州日光の湯本で採った。

[#「アスナロウノヤドリギ=アスナロノヒジキ(『本草図譜』)(原図着色)」のキャプション付きの図(fig46820_20.png)入る]
[#「Uromyces deformans Berk[#「Berk」は斜体]. et Broom[#「et Broom」は斜体]. 1−6(7−8は Puccinia corticioides Berk[#「Berk」は斜体]. et Broom[#「et Broom」は斜体].)[Journal of Linnean Society, Bot. vol. ※[#ローマ数字10、1−13−30]※[#ローマ数字6、1−13−26] Plate ※[#ローマ数字2、1−13−22]]アスナロノヒジキ=アスナロウノヤドリギ」のキャプション付きの図(fig46820_21.png)入る]

  キノコの川村博士逝く

 理学博士|川村清一《かわむらせいいち》君は日本で第一番の菌蕈学者すなわち斯界のオーソリティであったが、六十六歳を一期として胃潰瘍のため吐血し、忽焉易簀《こうえんえきさく》せられたのは惜しみてもなお余りがある。
 君は作州津山の生れで、松平家の臣であった。明治三十九年(1906)七月に東京帝国大学理学部植物科を卒業し、直ちに日本の菌類を研究する途を辿っていた。その間洋行もし、内外多くの文献も集め、また実地に菌類標本も蒐集して研究の基礎を築いた。今はこれらの書籍、標本はみな遺愛品となって遺るに至ったが、遺族の方はこれを日本科学博物館に献納したと聞いた。私は斯学のためまた博士生前の努力のため、ひとえにそれを安全に保存せられんことを切望する次第である。
 同君は自ら写生図を描くことが巧みであったので、他の図工を煩わすに及ばす、みな自分で彩筆を振った。書肆が競って中等学校の植物教科書を出版した華やかな時代には、同君に嘱して菌類の着色図を描いてもらいその書中を飾ったものだ。甲の教科書にも乙の教科書にもキノコの着色図版といえば、後にも先きにも川村君の腕を振う独壇場であった。
 君には二、三の優秀な菌類図書が既刊せられてはいるが、その多年にわたって自身に写生してためたものをまとめて一書となし、まず同君最後の作として東京本郷の南江堂でこれを印刷に付し、ヤット出来上がった刹那、昭和二十年の戦火で不幸にもそれが灰燼となって烏有に帰した。まことに残念至極なことで、確かに学界の大損失であるといえる。
 川村君は燃ゆる心を以て再挙を図っていた。幸いにその原稿の原図が戦火を免かれ、安全に残ったことを同君の書信で知ったので、私はその不幸中の幸運を祝福し、右菌類図説の再発行を祈っていた。
 そのうち昭和二十年八月十五日に終戦になったので、程もなく同君は山梨県東八代郡花鳥村竹居の疎開地から無事に都下滝野川区上中里十一番地の自宅へ還った。が、間もなく天、同君に幸いせずついに上に記したように、不幸にして不帰の客となった。
 同君は晩年には大いに菌類を研究して新種へ命名し、世に発表するような仕事には手を出さなく、もっぱら従来研究したものを守り、それをまとめて整理し世に公にすることに腐心せられていた。とにかく日本で晨星もただならざるほど少ない菌学者の一人を喪ったことはまことに遺憾の至りである。まだ死ぬほどの老齢でもなかったが、どうも天命は致し方もないものだ。
 同君と私とは、同君が大学在学当時以来すこぶる眤懇の間であったので、突如として同君の訃音をきいたときは、殊に哀愁の感を禁じ得なかった。

  日本の植物名の呼び方・書き方

 日本の草や木の名は一切カナで書けばそれでなんら差し支えなく、今日ではそうすることがかえって合理的でかつ便利でかつ時勢にも適している。マツはマツ、スギはスギ、サクラはサクラ、イネはイネ、ムギはムギ、ダイコンはダイコン、カブはカブ、ナスはナス、ネギはネギ、キビはキビ、ジャガイモ[#「ジャガイモ」は底本では「シャガイモ」]はジャガイモ、キャベツはキャベツ等々でよろしい。なにも松、杉、桜、稲、麦、馬鈴薯、甘藍などと面倒臭くわざわざ漢字を使って書く必要はない。元来漢字で書いたものはいわゆる漢名が多く、漢名は中国の名だから、こんな他国の字を用いて我国の植物を書く必要は認めない。ゆえに従来の習慣のように漢字を用うるのはもはや時世後れである。昔はそれでもよかった時代もあったが、今日はもう世の局面が一転し、旧舞台が回って新舞台になっていることを理解していなければならない。東方日出でてなお灯を燃やす愚を演じては物笑いだ。
 東京帝国大学理学部植物学教室では、何十年以来植物の日本名はみなカナで書いているが、世間はズット大学より後れて昔の習慣から脱却し得ず、いわゆる古い殻を脱がないのである。それがどれほど日本文化の進歩を妨げているか、まことに寒心の至りに堪えない。また自分の国での立派な名がありながら、他人の国の字でそれを呼ぶとはまことに見下げはてた見識で、また独立心の欠けている話し、これはまるで自己の良心を冒涜し、自分で自分を辱かしめているといわれてもなんとも弁解の言葉はあるまい。ゆえに一日、否な一刻も早くこの卑屈な旧慣を改め、この不見識な旧習から脱却して、現下の時勢に鑑み今日の進歩に後れぬように努めねばならないが、しかし旧態依然たる陋習《ろうしゅう》[#ルビの「ろうしゅう」は底本では「そうしゅう」]を株守している人々が世間に多く、これではけっして文化的または科学的な行き方とはいえまい。

  オトコラン

 男子蘭《オトコラン》! 何んとも勇ましい名じゃないか。元来それはどんな植物か。また誰がそういう名をつけたか。すなわちこれはユリ科に属する Yucca gloriosa L[#「L」は斜体]. に対して私の命じた和名なのである。そしてこの植物は北米の南カロリナ州から南してフロリダ州の海浜に沿った地の原産で、俗に Spanish Dagger(イスパニア人の短剣)といわれるものである。
 この Yucca という属名は元来トウダイグサ科の Manihot(すなわちその肉根から Tapioca, Cassava, Macaroni が製せられる)に対する Yucca という土名であるのだが、それを昔 Gerarde という学者が今の植物と間違えたのであるといわれる。そしてその種名の gloriosa は noble で崇高すなわち気高い意味で、それはこの植物を賞讃したものである。
 本品は強壮な常緑多年生の硬質植物で、茎は粗大で短く、あまり高くならない。深緑色を呈した葉は強質であたかも
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