ノ短かい新芽を分って葉を出すのである。そして三年目に花を咲かせてその年に枯槁し、側に出ている新しい偽茎がこれに代わるのである。
 バショウの和名は芭蕉から来たものである。芭蕉はすでに上に述べたようにバナナの名であるから、バショウの和名はじつは不都合を感ずるけれど、昔からそういい習わされて来ているから今さらこれを改めることは不便極まるもので、まずはそれを見合わすよりほかに途はあるまい。

  オトヒメカラカサ

 海藻である緑藻部(Chlorophyceae)の中に緑色のやさしい姿をしている石灰質の珍らしいオトヒメカラカサ(乙媛傘、すなわち龍宮の仙女乙媛の傘の意)があって、この和名は私の名づけたものだが、しかし一般の海藻学者はこれをカサノリ(傘海苔)といっている。すなわちこれは初め藻類専門家の理学博士岡村金太郎君(東京人)の名づけたものである。私はこの美麗で優雅でかつ貌《かたち》の奇抜な本品に、この雅ならざるのみならず余りにも智慧の無さすぎる平凡至極なその名がついているのを惜しみ、その別名の意味で上のようにこれを乙媛傘と名づけてみた次第だが、これは前人の名づけた名前を没却する悪意ではけっしてない。しかしカサノリというとそのカサは笠か傘かどちらか分らんので、これは是非一目して傘の姿を連想させたい。笠は編笠、菅笠、陣笠のように柄がないので形がこの笠にはあたらない。またあるいはカサを瘡《カサ》とも感ずる。すなわちその海藻が痂《カサブタ》のような形ではないかとも想像する人がないとも限らない。また重なることも嵩《カサ》というからあるいはそれを重畳の意味にとらんでもあるまい。それゆえこれはどうしても明瞭にカサノリは笠ではなくて、それは傘の意味だということを徹底させておく必要があるのではなかろうか。
 このオトヒメカラカサは Acetabularia 属[#「属」に「ママ」の注記]のものだが、私がオトヒメカラカサと名づけた時分には、日本の学界でこの種を一般に Acetabularia mediterranea Lamx[#「Lamx」は斜体]. と信じていたが、後にこの学名で呼ぶのは誤りであることが判って、今日ではそれが Acetabularia lyukyuensis Okamura et Yamada[#「Okamura et Yamada」は斜体] と改められた。そして私が右のオトヒメカラカサの副和名を公にしたのは大正三年(1914)十二月に東京帝室博物館で発行した『東京帝室博物館天産課日本植物|乾※[#「月+昔」、第3水準1−90−47]《かんさく》標本目録』であった。すなわち今から三十九[#「三十九」に「ママ」の注記]年も前のことに属する。
 ついでながら、ここに同目録で私が新和名を下した海藻は次の品々であったことを紹介しておこう。この時分はこれらの海藻に和名がなかった。
 Amphiroa aberrans Yendo[#「Yendo」は斜体](フサカニノテ)、Amphiroa declinata Yendo[#「Yendo」は斜体](マガリカニノテ)、Amphiroa ephedracea Lamk[#「Lamk」は斜体].(マワウカニノテ)、Grateloupia imbricata Hoffm[#「Hoffm」は斜体].(シデノリ)、Grateloupia ligulata Schmitz[#「Schmitz」は斜体](ナガムカデ)、Ceramium circinatum J[#「J」は斜体]. Ag[#「Ag」は斜体].(マキイギス)、Dasya scoparia Harv[#「Harv」は斜体].(ヒゲモグサ)、Dasyopsis plumosa Schmitz[#「Schmitz」は斜体](ヒゲモグサモドキ)、Heterosiphonia pulchra Ekbg[#「Ekbg」は斜体].(シマヒゲモグサ)、Laurencia obtusa Lamx[#「Lamx」は斜体].(マルソゾ)、Laurencia tuberculosa J[#「J」は斜体]. Ag[#「Ag」は斜体].(タマソゾ)、Polysiphonia Savatieri Hariot[#「Hariot」は斜体](サバチエグサ)、Polysiphonia urceolata Grev[#「Grev」は斜体].(アカゲグサ)、Polysiphonia yokosukensis Hariot[#「Hariot」は斜体](ヨコスカイトゴケ)、Champia expansa Yendo[#「Yendo」は斜体](オオヒラワツナギ)、Gymnogongrus divaricatus Holm[#「Holm」は斜体].(ハタカリサイミ)、Sargassum Kjellmanianum Yendo[#「Yendo」は斜体](コバタワラ)、Colpomenia sinuosa Derb[#「Derb」は斜体]. et Sol[#「et Sol」は斜体]. forma deformans Setch[#「Setch」は斜体]. et Gard[#「et Gard」は斜体].(ヒロフクロノリ)、Colpomenia sinuosa Derb[#「Derb」は斜体]. et Sol[#「et Sol」は斜体]. forma expansa Saund[#「Saund」は斜体].(ヒラフクロノリ)、Chaetomorpha moniligera Kjellm[#「Kjellm」は斜体].(タマシュズモ)、Cladophora utriculosa Kuetz[#「Kuetz」は斜体].(ヒメシホグサ)、Enteromorpha clathrata J[#「J」は斜体]. Ag[#「Ag」は斜体].(カウシアオノリ)。

  西瓜――徳川時代から明治初年へかけて

 スイカの中国名は西瓜で、その学名は Citrullus vulgaris Schrad[#「Schrad」は斜体]. である。我国でつくられる瓜類の中で特にその葉が細裂しているので、直ぐに他の瓜類とは見分けがつく。熱帯地方ならびに南アフリカ地方の原産で俗に Watermelon と呼ばれる。
 スイカは水瓜の意ではなく、西瓜の唐音から来たものであることが寺島良安《てらじまりょうあん》の『倭漢三才図会《わかんさんさいずえ》』に出ている。そうしてみると、この水々しい瓜でも上のように水瓜の意味ではないことが分かる。
 白井光太郎博士の『植物渡来考』に『長崎両面鏡《ながさきりょうめんかがみ》』を引いて「天正七年に西瓜南瓜の種来る」と書いてある。しかるに御小松院の時の人、僧の義堂の詠じた詩でみれば、なおその前に西瓜があったことになる。そしてその詩は「西瓜今見[#(ル)]生[#(ルコトヲ)][#二]東海[#(ニ)][#一]剖破[#(スレバ)]含[#(ム)][#二]玉露[#(ノ)]濃[#(ナルヲ)][#一]」である。貝原益軒の『大和本草』によれば、スイカは寛永年中に初めて異国から来たとある。寺島良安の『倭漢三才図会』には西瓜は慶安年中に黄檗の隠元が入朝の時、西瓜、扁豆《インゲンマメ》等の種子を携えてきて初めてこれを長崎に種《う》えたとある。すなわち上の寛永よりは少し後ちである。そして右のインゲンマメは Dolichos Lablab L[#「L」は斜体]. を指している。すなわちこれが隠元携帯の本当のインゲンマメである。今日いう Phaseolus vulgaris L[#「L」は斜体]. のインゲンマメは隠元とは無関係の贋のインゲンマメであって、隠元の名を冒しているものであることを承知していなければならない。『大言海』にはこの新旧二つのインゲンマメを一種の下に混説してあって、明かにその正鵠を失している。大槻先生にも似合わないことだ。
 今日では淡緑色皮の円いスイカ、楕円形で皮に斑紋のあるスイカが普通品だが、もっと前、私共の若い頃のスイカの普通品のまん円い深緑色皮のものであったが、それがいつとはなしに世間になくなった。そしてこのスイカの種子は大きくて黒色であった。これに比べると今日のスイカの種子は色も違い形も楕円形で小さい。右の深緑色球形のスイカは徳川時代から明治時代へかけての普通品で、小野蘭山《おのらんざん》の『本草綱目啓蒙』にも「皮深緑色ニシテ※[#「襄+瓜」、101−10]《うりわた》赤ク子黒キモノハ尋常ノ西瓜ナリ」とある。岩崎灌園《いわさきかんえん》の『本草図譜』にもその図を載せ、「六七月に瓜熟す皮深緑肉白色※[#「襄+瓜」、101−11]紅赤色子は黒色なり此物尋常の西瓜なり」と書いてある。しかしこの時分でも西瓜の変わり品が幾種かあって、円いのも長いのもまた皮に斑のあるものもあった。そしてその名もいろいろで、例えば白スイカ、木津スイカ、赤ホリ(伊勢赤堀村の産)、長スイカ、ナシキンなどである。また当時皮と※[#「襄+瓜」、101−14]とが黄色でアカボウと呼ぶものもあった。また皮は緑色で中身の※[#「襄+瓜」、101−15]が黄色の黄スイカもあった。また袖フリという極く小さい西瓜もあった。
 中国人は常に種子を食する習慣がある。すなわち歯でその皮を割りその中身の胚を味わうのである。食べ慣れないとなかなか手際よくゆかない。それにはその種子が大きくないと叶わんので、中国では特に種子食用の西瓜がつくられていると聞いたことがあった。

  ギョリュウ

 日本へ昔|寛保《かんぽ》年中に中国から渡って植えてある※[#「木+蟶のつくり」、第3水準1−86−19]柳《テイリュウ》、すなわちギョリュウ(御柳の意)は、タッタ一種のみで他の種類は絶対にない。しかしそれを二、三種もあるかのように思うのは不詮索の結果であり、幻想であり、また錯覚である。
 このギョリュウの学名は疑いもなく Tamarix chinensis Lour[#「Lour」は斜体]. であるが、学者によっては日本にあるギョリュウは Tamarix juniperina Bunge[#「Bunge」は斜体] であるといわれる。そうなると右はいずれが本当か。今これを裁判して判決するのはまことに興味ある問題であるばかりではなく、この判決は疑いもなく世界の学者にその依るところを知らしめる宣言であり、また警鐘である。
 さて日本にあるギョリュウは一樹でありながら、その一面は Tamarix chinensis Lour[#「Lour」は斜体]. であり、またその一面は Tamarix juniperina Bunge[#「Bunge」は斜体] である。すなわちこのギョリュウは五月頃まず去年の旧枝に花が咲いて、これに Tamarix juniperina Bunge[#「Bunge」は斜体] の名が負わされ、次いで夏秋にまたその年の新枝に花が咲いて Tamarix chinensis Lour[#「Lour」は斜体]. の名になるのである。かく同じ一樹で樹上で二回花の咲くことを学者でさえも知っていないのであるのはどうしたもんだ。すなわちこの点では確かに学者は物識りではないことを裏書きする。そしてそれをひとり認識している人は誰あろう、ほかでもないこの私である。この点では天狗よりもっともっと鼻を高くしてもよいのだと自信する。何んとなれば、この事実には日本の学者はもとより世界の学者が挙《こぞ》って落第であるからである。私は気遣いでこれを言っているのではけっしてない。それはちゃんと動きのとれぬ実物が、事実を土台として物を言っているのだから仕方がない。
 ここに一本のギョリュウがあるとする。元来これは落葉樹である。春風に吹かれて細かい新葉が枝上に芽出つ、五月になるとその去年の旧枝上に花穂が出て淡紅色の細花が咲く、花中には雄蕊《ゆうずい》もあれば、子房をもった雌蕋もある。にもかかわらずどうして嫌なのか実を結ばない。ただその顔ばせを見せたのみで花が凋衰する。そしてこの五月の花の場
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