教えてきた。けれども膏肓《こうこう》に入った病はなかなか癒らなく、世の中の十中ほとんど十の人々はみな痼疾で倒れてゆくのである。哀れむべきではないか。そして俳人、歌人、生花の人などは真っ先きに猛省せねばならぬはずだ。
全体紫陽花という名の出典は如何。それは中国の白楽天の詩が元である。そしてその詩は「何年植向仙壇上、早晩移植到梵家、雖在人間人不識、与君名作紫陽花」(何ンノ年カ植エテ向フ仙壇ノ上《ホト》リ、早晩移シ植エテ梵家ニ到ル、人間ニ在リト雖ドモ人識ラズ、君ガ与《タ》メニ名ヅケテ紫陽花ト作《ナ》ス)である。そしてこの詩の前書きは「招賢寺ニ山花一樹アリテ人ハ名ヲ知ルナシ、色ハ紫デ気ハ香バシク、芳麗ニシテ愛スベク、頗ル仙物ニ類ス、因テ紫陽花ヲ以テ之レニ名ヅク」である。考えてみれば、これがどうしてアジサイになるのだろうか。アジサイをこの詩の植物にあてはめて、初めて公にしたのはそもそも源順《みなもとのしたごう》の『倭名類聚鈔《わみょうるいじゅしょう》』だが、これはじつに馬鹿気た事実相違のことを書いたものだ。今この詩を幾度繰り返して読んでみてもチットもそれがアジサイとはなっておらず、単に紫花を開く山の木の花であるというに過ぎず、それ以外には何の想像もつかないものである。ましてや元来アジサイは日本固有産のガクアジサイを親としてそれから出た花で断じて中国の植物ではないから、これが白楽天の詩にある道理がないではないか。従来学者によっては我がアジサイを中国の八仙花などにあてているが、それは無論間違いである。そしてまたアジサイは中国の繍毬ならびに粉団花に似たところがないでもないが、これらも全く別の品である。しかし近代の中国人は日本から中国へ渡ったアジサイを瑪理花(毬花の意)とも、天麻理花(手毬花の意)とも、また洋繍球とも、あるいは洋綉球ともいっているが、この洋は海外から渡来したものを表わす意味の字である。とにかくアジサイを中国の花木あるいは中国から来た花木だとするのは誤認のはなはだしいものである。そしてこのアジサイを日本の花であると初めて公々然と世に発表したのは私であった。すなわちそれは植物学上から考察して帰納した結果である。
次はカキツバタの燕子花だが、そもそもこの燕子花の出典は如何。これは『渓蛮叢笑《けいばんそうしょう》』という本の中にある「紫花ニシテ全ク燕子ニ類シ藤ニ生ズ、一枝ニ数葩」(漢文)とほんのこればかりの短文から出たものであるが、この燕子花はじついうとキツネノボタン科(Ranunculaceae)の一陸草である Delphinium grandiflorum L[#「L」は斜体]. の漢名である。この植物はまた飛燕とも紫燕とも称し、和名をオオヒエンソウと呼ばれる。右の「藤ニ生ズ」とはヒョロヒョロした弱い茎に碧紫色の美花が七、八輪も咲いているので、それで「一枝ニ数葩」と書いたものだ。そしてこの植物は前述の通り陸草であって水草ではなく、その産地は中国の北部から満州へかけ、また広くアルタイ、バイカル、ダフリア、オホーツクなどのシベリア地方に野生し普通に見られる宿根性の花草であって、これが前記の通り燕子花そのものである。
カキツバタはアヤメ科 Iris 属[#「属」に「ママ」の注記]の水草で、その花梗はツンとして強く立っており、花は梗頂に通常三個あるが、それが一日に一輪ずつしか咲かない。こんな草を、ヒョロヒョロして弱い茎に七、八花も咲く本当の燕子花に比べれば少しも合致するところがなく、カキツバタを燕子花だとする従来の学者の迂遠を笑わざるをえない。世人殊に詩人、俳人、歌よみ、活け花師などは早速この間違った旧説から蝉脱して正に就き識者の嗤笑《ししょう》を返上せねばなるまい。
昔からまたカキツバタと誤っている杜若の真物は、ショウガ科のアオノクマタケランである。人に笑われるのが嫌ならカキツバタを杜若と書かぬようにせねばならない。
楡とニレ
日本の学者は中国の楡を日本のニレだとしているが、元来楡は日本にはない樹であるから日本のニレではあり得ない。それはニレ属(Ulmus)には相違がないが、けっしてニレその樹ではない。つまり従来からの日本の学者は本物の楡を知らなかった。しかしそれは無理もない。すなわち楡は絶えて日本に産しないから、その実物の捕捉が我が学者には出来なく、ついに楡をニレとする誤りに陥ったのである。
元来楡は大陸の産でシベリアから中国ならびに満州にかけて広く生じている大木である。木の大きい割合に葉の極めて小さいものである。そして春早く葉の出ない前に小さい花が枝上に咲き、直ちに実を結び、それから葉が茂るのである。すなわち花、実、葉という順序である。
楡は中国には沢山ある普通樹で、それが食物と関係があるから極く著明である。食物
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