》島に投錨した。そこから小艇に乗換えて插橋川《そうきょうせん》を遡行し、九万浦《きゅうまんほ》付近で上陸した洋夷の一隊は、自ら俄羅斯《オロス》国(ロシア)軍隊と揚言しつつ、忠清道|徳川《とくせん》郡|伽洞《かどう》にある大院君の父王、南延君球《なんえんくんきゅう》の陵に向った。
 守衛および伽洞民衆は逃散してしまう。洋夷は王陵の発掘をはじめたが、どうしたわけか中途でやめて、行担島へ引揚げたのが四月二十日(旧暦)。
 入違いに忠清監司|閔致痒《みんしよう》が軍隊を率いて徳川に馳行する。洋夷は船を行担島からさらに江華島南方の東検《とうけん》島に移して、上陸、ここで朝鮮軍隊と衝突して敗走した。
 大院君摂政時代にはいって三度目の勝利である。永宗僉使《えいそうせんし》申考哲《しんこうてつ》がこの戦勝を京城《けいじょう》に報告した文中に「…………傷《きずつ》く者はなはだ衆《おお》し。溺水《できすい》して死する者|的数《てきすう》を知らず。故にあえて枚陳せず。ただ二賊首をもって東門に斬懸し、もって賊衆を威す!」とある。二賊首はすぐさま京城に送られ、改めて軍民に梟示《きょうじ》して、おおいに戦勝を祝
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