がイギリス人を斬った、いわゆる生麦事件に代表されるものであり、後者はたとえば対馬《つしま》が占領されたとき最後まで反抗した対馬の住民であった。民間から攘夷に参加した紀州の浜口梧陵《はまぐちごりょう》、尾張の林金兵衛《はやしきんべえ》あるいは天狗党にはせ参じようとした河野広中《こうのひろなか》、その他文久年間の過激攘夷決行派のなかに大ぜいおった。武士でなく当時の人民の生産力を代表する若いブルジョアジーの攘夷が後者を代表する。これら四派がきり結ぶなかに明治維新へと歴史は進んでいく。
[#7字下げ]積年の野望[#「積年の野望」は中見出し]
日本開国の先べんをつけたアメリカが、その直後に起った南北戦争に手をしばられている間に日本貿易の果実はイギリスの手に帰した。やがて日本にも明治維新の変革が、フランスに支援された幕府とイギリスに支持された天皇の両派の、どちらも封建的な同一階級同士の権力争奪戦という形で、革命ではなく一種の改革が行われることになった。
だがアメリカは日本を水先案内とするアジア進出の積年の野望をとげようとして乗り出してきた。その最初の現れはグラント将軍の琉球問題あっせんで、
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