以後の数十年間を、速力構造および容積のうえの最高発展期として所有することをえたものである(2)。
すでに一八二〇―五〇年の間に、帆船の発達は英米競争を通じて著しいものがあった。まずナポレオン戦争の直後をうけた二〇年代の西インド(大西洋)貿易における新型米国帆船の勝利、三〇年代にはシナ海でこの米国帆船が英国東インド会社の船を追払ってしまった。米船の勝利はすべて速力の賜《たまもの》だった。そして四〇年代、英国帆船がやっと陣容を立直したと見えるか見えぬに、四九―五〇年のカリフォルニア黄金狂時代――その、海のゴールド・ラッシュの中から、従前未聞の快速船が生れ出た。「カリフォルニアン・クリッパー」こそ、アルゴノーツの心願そのままに、speed, comfort, capacity おまけにいま一つ beauty を驚異的な程度に綜合した絶品だった。
四九年のニューヨーク・サンフランシスコ間(ケープホーン迂回)の帆走記録は百四十三日ないし二百六十七日だったが、天才技師ドナルド・マッケイの最初の作品スタッグハウンドは五一年二月の処女航海に百十日で走り、彼の最大傑作フライング・クラウド(木造一、七九三トン)は同じ年に実に八十九日二十一時間の驚異的記録を作った。
だがカリフォルニアン・クリッパーに関する最大の驚異は、それがニューヨーク・サンフランシスコ間だけでなく、いわゆる「三角航海」によって全世界を席巻《せっけん》したからであった。マルクスがいったように太平洋をはじめて世界市場に編入し大西洋を単なる「内海」の地位に却《しりぞ》けてしまう最初の芸当を、美事にやってのけたからだ。
「三角航海」とはニューヨーク、サンフランシスコ、広東(または上海)の三点を一航路に結ぶ世界周航路で、カリフォルニアン・クリッパーはこのコースをとったものである。すなわちニューヨークから、満載した貨物と旅客をサンフランシスコで下ろすと、空荷のまま一気に太平洋を乗切って、広東または上海で茶を積込み、インド洋および喜望峯経由で帰航する。
このコースはきわめて合理的だった。第一にカリフォルニア貿易は五〇年代を通してほとんど片道貿易だった。すなわち金の輸送は少数の船に限られており、人間は金掘に失敗した者もすべて定着して戻らない。これが砂金の代りに金色の麦を輸出するようになったのは五五年以降で、なおきわめて少量だった。第二に当時のシナ貿易も、いわゆるティー・クリッパーはほとんど空荷でシナに向うのが常だった。誠に一八五二年当時の英支貿易の数字について見ても、シナへの輸出総額は約三百万ポンドだが、シナからの輸入は茶だけでゆうに六千万ポンドに達している。
だからこの米国船の三角路《スリー・コーンド》と英船の往復路《アウト・エンド・ホーム》と競争させたら、勝負の数は明らかだ。まず黄金狂患者が創り出した米船の画時代的なスピードが物をいう。つぎに三角路の方には途中でカリフォルニア貿易というおまけが付く、したがって運賃のうえでも物がいえる(3)。
はたして「三角」航路はすぐさまロンドンを一角加えた事実上の四角航路となった。米国クリッパーはシナ米国間の貿易だけでなくシナ英国間の貿易をも一時はほとんど独占した。
フライング・クラウド号はそのうるわしい姿のためにロングフェローに The Building of the Ship を物させた。フライング・クラウドの船長クリージイはリンドバーク大佐のように国中の人気者となって、ワイワイ騒ぎから身をまもるために田舎に姿をくらまさなければならぬほどだった。彼とその船乗こそ、一八五一年の「七つの海」――太平洋とシナ海とインド洋と大西洋を掌握した米国海運業の、そしてそれが起因をなしたカリフォルニア黄金狂時代の、もっとも美しい誇らしいシンボルだったのだ。
速力の点では三角路の方が距離においてずっと長かったにかかわらず、英船の往復日数に比べて約一ヶ月の差しかなかった。いわんや同一の上海ロンドン間では、五〇年代のスピード・レコードは一つ残らず米船に占められている。
[#7字下げ]七 最初の横断汽船[#「七 最初の横断汽船」は中見出し]
「フライング・クラウド」に象徴されたカリフォルニアン・クリッパーは近代資本主義最初の東廻選手として、世界を西からでなく東から円形に仕上げた。「和親」条約はその帆船路に黒船の煙をたなびかせるための条件達成をいみした。五〇年初頭のマルクスの予見どおりに、運命は黄金狂時代のアメリカ合衆国に微笑みかけ、微笑みつづけるもののようだ。
しかるに、ハリスのもとにお吉《きち》が通う日が来ても、汽船は太平洋を渡らなかった。そればかりでなく、ひとたび東廻選手によってほとんど独占されたシナ英国間の茶貿易に、ふたたび激烈な英米帆船の競争時代がはじまっていた。英国の船大工によしフライング・クラウドを打負かす技術があったとしても、「三角航海」の経済的優越をそもそもどうして処理できたのか?
神様のお陰で! このとき英国商船にも新しい「三角航海」が恵まれたのだ。一八五一年、濠洲に金鉱が発見された。南太平洋の新黄金狂時代は、五二年から英、濠、支の三点を結ぶ帆船洪水路を産み出した。シドニーでアルゴノーツとそのショベルとその長靴などを陸揚げした船は、今度は空荷で一気に上海まで北上すればよい。神様でないマルクスに金鉱の予言までさせようたってそれは無理だ。
それにしても、なぜ汽船は姿を見せなかったのか?
一八五一年から十五年間にわたるいわゆる tea−clipper 時代の、火の出るような英米汽船競争を通じてますます茶帆船構造の発達をみ、いろいろな制限下にある汽船の追随をゆるしそうもなくみえたことも、一つの理由ではあろう。またシナの内乱――五〇年から六四年にいたる長髪賊――が何程かの理由を提供するかもしれない。だが何といっても決定的な原因は、シナ海に英米クリッパーの競争が行われるのと時を同じうして、それと劣らぬ激しさの英米汽船競争が、北大西洋に全力を集中して戦われつつあったことだ。
四〇年代の北大西洋は汽船は英、帆船は米ときまりがついていたのが、五〇年早々米国のコリンス会社が政府の強力な補助金(年十万ポンド)をえて、英国のキュナード汽船(政府補助金八万一千ポンド)に挑戦した。まず英の二千トン級にたいする米の三千トン級。猛烈な速力競争――例のように賭が流行する。賃銀競争――キュナードの独占時代トン当り七ポンド十シリングだったのが、その半分になる。五年後(一八五五)英国側は同じく両輪《パドル》船ではあるがしかし鉄造の三千三百トンという巨船を送り出す。米国側も負けてはいず、政府補助金額を年十七万九千ポンドに増加する。
それは大西洋の「内海」化を物語っている。コリンス会社は二隻の優秀船を失う災厄を見たが、ぜがひでも勝たなければならない。算盤《そろばん》を度外に置き全米の知能と技術を傾けて、未聞の新鋭汽船アドリァチックが進水した。一八五八年のことだ。英国側は濠洲航路のために造られた超巨船一万八千九百十四トンの「グレート・イースターン」を大西洋に動員した。むろん欠損だ。ところで、米国側は、欠損どころか破産してしまった! 一八五八年のことである。
一八五四年に「和親」条約が成功しても太平洋に汽船が通う余裕がなかったのだから、そして、当の五八年「通商」条約がハリスの手でできてしまったのだったから、結局、実は横断汽船のための和親条約をもって、単なるくどき落しの一手だったと、後世認められたからとて仕方がない。男女の間にも、よくあるやつだ。
ところで、二年経つとアメリカの内乱である。六〇―六五年の南北戦争が終ったころは、上海ロンドン間の英米クリッパー戦は完全に英国の勝利に帰していた。the clipper race はもはや英国船同志の間で行われる例年のスポーツと化していた。そして大西洋では、最初の複式機関を据えたスクリュー汽船が、英国旗をなびかせていた。
南北戦争は英米海運戦および市場戦の上で決定的に英国を勝利させた。そして帆船も汽船も鉄でつぎに鋼で造られるようになると、もう英国の重工業が物をいった。しかも六九年になると、スエズ運河が開通する。日本を開いた殊勲は米国のものだったのに、ヨコハマ当初の貿易額の八〇%は英国のものだった。
よろよろと起ち上った拳闘選手みたいに、太平洋郵船《パシフィック・メイル》会社の「コロラド」(三、七二八トン)が金門湾を解纜したのは一八六七年(慶応三)一月元旦のことだった。彼女に北太平洋最初の横断汽船たる名誉はめぐまれてなかったが、そもそも太平洋横断をはじめから予定してカリフォルニア黄金狂時代に生れ出たこの会社の船としては、彼女は初志を――あまりにも遅く!――遂げた最初のものである。
サーヴィスは月一回、姉妹船に、China, Japan, America などがあった。いずれも図体は四千トンにちかい、しかし木造の、使い古した単式機関両輪船で、大西洋上の鉄造複式機関船にくらべてまさに前世紀の遺物である。サンフランシスコ横浜間二十二日、横浜香港間七日、横浜碇泊日数をいれて全コース三十日――十数年前の、米国海軍委員会報告書の予定にすら足りない!
しからばはじめて北太平洋を横断した汽船――商船――は資料について首をひねるほど小さな船だ。370 トンと記された活字に誤がないものなら、これは内乱最中、一八六二年の米国そのものの焦燥をおよそうらさびしく象徴したものというほかはない。
文久二年の横浜寄港船名表中に、
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船名 John T. Wright
船長 Watson
トン数 370
船籍及船種 American steamer
出港地 San Francisco
入港日 June 8th
[#ここで字下げ終わり]
サンフランシスコの C. W. Brooks 会社の船で、合衆国政府の郵便補助金を受け、この船を最初として定期に太平洋を往復した(4)。
大洋航路で汽船が帆船に勝てるようになったのは、複式機関が応用されて(一八六五年以後)、一馬力当りの貨物庫容積、石炭一トン当りの馬力の強度がぐっと増して以来のことである。はじめて政府補助金は不必要となった。
それ以上の技術的発展、たとえば triple expansion engine などは、すべて一八八一年以降の出来事だった。一八五六年以降のお化《ばけ》が国を売り大洋航路から追われて、上海をも含めた日本沿海航路をよたよたと稼がされるようになったころ、原始的蓄積会社の観がある維新政府の支持によって、郵便汽船三菱会社は一八六五年以後の新鋭船を所有することができ、八〇年代が訪れる数年前に、すでに沿海航路から米の太平洋郵船と英の彼阿《ピーオー》を駆逐することができた。
日本郵船が早くも九〇年代に太平洋航路にゆえいを争うこととなったのをみて、何も不思議とするには当らない。日本は汽船の前史を所有しなかったからこそ、汽船の後史を先進国以上の組成において、つまり前史時代の雑物を含まない序列で、所有することをえたのである。
もとより、その歴史的機能に徹しては傍若無人の概ある維新政府が、あったればこそのはなしだ。
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(1) 米墨戦争と同時にコロン・パナマ鉄道が企画されて五五年に完成した。
運河の方は四九年に「米国太平洋大西洋運河会社」というのができて、五一年に完成した。ニカラガ国内を通ずるもので、スエズ運河開通前のいわゆる overland route に似たものだった。河と湖をつないで汽船を通じ、残りは国道で連絡した。これが完成する前はチャグレス・パナマ間の道路で連絡した。
(2) 帆船汽船ともにいれた全世界商船トン数にたいする帆船トン数の割合をみても、一八五〇年九二%、七〇年に八四%、九〇年に至って半分、一九一〇年になるとすっかり減って二一%になった。カーカル
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