汽船が太平洋を横断するまで
服部之総
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)齎《もた》らす
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(例)黄金|亡者《もうじゃ》
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さてアメリカだ。この国に生じた最も重大な、二月革命よりもっと重大な事実は、カリフォルニヤ金鉱の発見である。発見後せいぜい十八ヶ月の今日、既にこれがアメリカの発見そのものよりも遙かに大規模な結果を齎《もた》らすだろうことを思わせる。
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[#地から10字上げ]――カール・マルクス
[#地から3字上げ]一八五〇年一月三十一日
[#7字下げ]一 扁平な世界[#「一 扁平な世界」は中見出し]
悲喜劇にはじまった飛行機の太平洋横断は、実現までにどれほど騒々しいジャズの幾場面をもったものかしれないが、これにくらべると汽船のそれは、記録も怪しいくらい忘失された出来事のように見えて、じつははるかに大掛りなメロドラマだった。
汽船にだって賞金付で騒がれた歴史はある。一八二四年には、一定日数内に英印間を乗切った汽船にたいする八千ポンドの賞金がインドで発表された。そのため四百七十トン百二十馬力の汽船がデットフォードで造られ、翌二五年八月十六日にファルマウスを解纜《かいらん》、百十三日目にカルカッタに着いた。だが、賞金が出るくらいだから、大洋航路が汽船会社の算盤《そろばん》に合うのはまだまだのことだった。さてこそ、これと前後して、インド政府に身売のつもりで英国から押渡った汽船ファルコン号は、あわれ生新しい汽罐《きかん》も両輪もはぎとられて、ただの帆船としてやっと買手がついたという。
大洋航路の汽船会社は、ようやく三十年代の終頃になって設立された。
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東洋航路 The Peninsular & Oriental Steam Navigation Company(P & O), 1837
大西洋航路 The Cunard Company, 1838
太平洋航路 The Pacific Steam Navigation Company, 1840
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だがこれで七つの海にことごとく汽船が通じたと考えてはならない。「太平洋汽船会社」とは名乗っても、実はリヴァープールと南米の太平洋岸チリ、ペルーをつなぐラインで、いにしえのバルボアのように、太平洋を覗《のぞ》いたというまでのことだ。サザンプトンを起点とする、P&O(彼阿《ピーオー》)は、スエズを[#横組み]“overland route”[#横組み終わり]で連絡しながら、一八四五年には香港まで延びた。しかし太平洋は依然一隻の汽船も渡らなかった。汽船にとって世界はまだ扁平だった!
太平洋を横断するための性能がまだ汽船になかったのであるか――昨今までの段階における飛行機のように?
どうして! すでに一八四三年に三千二百七十トン一千馬力というのが北大西洋に煙を吐いていた。よし両輪《パドル》船だろうが、低圧の単式機関だろうが、炭庫を広くとりさえすれば、ボイラーの水は六十年代中頃まではふんだんに海水を使っていたのだ。実際これに似た技術条件の下で、英濠間を無寄港で乗切れる一万九千トンの巨船が、五十年代の海に浮んだものである!
で、渡ろうと思えば――渡るだけのことなら――いつでもできた。しかし、だいいち帆船にしてもが、一八四九年以前には、よくよくの珍しい例外はあったが、米支をつなぐのに太平洋を用いなかった。
日本開港の日までシナは扁平な世界および世界市場の極東端だった。三十年以来シナ市場は絶間《たえま》ない英米競争の場所だった。一八四二年の五港開放以後、世界経済中に占めるシナ市場の位置――対支貿易の量――は、ことに重要性を帯びてきた。太平天国の乱によってシナ市場が閉鎖されたら欧洲に革命が起る、とマルクスが叫んだほど。
そのシナの茶とアメリカ人参《にんじん》の往返が太平洋を忌避し、太平洋が帆船にとっても超ゆべからざる地表の大クレヴァスだったわけというのは――
第一にアメリカ合衆国が一八四六年までは太平洋岸を所有していなかったこと。
第二に太平洋岸の米大陸が、一八四八年まで何らの市場を――なによりも人間そのものを約束していなかったことである。
[#7字下げ]二 カリフォルニア黄金狂時代[#「二 カリフォルニア黄金狂時代」は中見出し]
ニューヨークを出た船はケープホーンを廻って太平洋へ首を出すまでには、立派に喜望峯《きぼうほう》をめぐってインド洋へ出ていられる。インド以東がどんなに遠かろうと、いたるところ商利を約束する港々に満ちているが、太平洋以西はサンフランシスコまで北上したところで、スペイン人の修道館が一つボソリと立っているだけだ。
ダナが訪れた一八三五年のサンフランシスコは――
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「投錨地の付近といわず、およそ湾岸全体、人影一つなかった……ふなべりを猛禽や渡鳥がかすめた。樫《かし》の森には野獣の列がゆききしていた。潮に乗ってしずかに湾頭を去らんとするとき、北岸の汀《みぎわ》に鹿がならんで、いぶかしそうに見送ってくれた」。
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このカリフォルニアが米墨戦争でアメリカに帰してから三年目にあたる一八四八年の一月十日に、ジェームス・W・マーシャルという男が、新領土カリフォルニアのサン・ジョアキン・ヴァレイで、はじめて砂金を発見した。このニュースがニューヨークの新聞に出たのが、実に九月の十六日だというから、もってそれまでのカリフォルニアが、そして一般に太平洋岸がアメリカにとって何ものであったかが察せられるだろう。
だが一度金鉱発見の報が伝わると、事態はガラリと変ってしまった。電話で、アメリカじゅうに報告される。大統領ポークが十二月には正式に報告する。やがて、熱病的なゴールドラッシュ!
今日のネブラスカの大豊原は、そのころ「大亜米利加沙漠《グレートアメリカン・デザート》」だった。その沙塵をあげて、カヴァード・ワゴンの列が、幾万という黄金探索者《アルゴノーツ》を西へ西へと運ぶ。沙漠が果てると山だ。倒れる者、引返す者を棄てて四九年の七月頃には、サクラメント・ヴァレイは羊ならぬアルゴノーツの群で身動きもならぬ景観だ。
たちまちマサチュセッツ州だけで百二十四もの金鉱会社が生れた。遠くロンドンでも正月中だけで五組のカ州金鉱会社が設立され、資本総額一、二七五、〇〇〇ポンドにのぼった。「極東」のシナ人までこめた世界じゅうの黄金|亡者《もうじゃ》が、バラックと二|挺《ちょう》短銃と砂金袋と悪漢とシェリフの国をつくるべく押寄せた。無人の広野はかくて四九年の末までに約十万の人間を呼集め、うち陸の幌馬車組が五万二千、のこりはことごとくケープホーンに帆を光らせる海のゴールドラッシュである。
金鉱発見以前、四七年四月から、八年四月までの一年間に大西洋岸から金門湾に入った船はたった四|艘《そう》だったのが、つぎの一年間には、一躍七百七十五艘に激増した。このなかには後に述べる汽船も若干入っているが、ほとんど帆船で、あり合せのいっさいの船が動員された。そのため太平洋従来の捕鯨業はぱったりになった。そのくせ金門湾には百艘以上の船が繋船されて、病院になったり倉庫になったりホテルに使われたり仮監獄にあてられたり、あるいは空しく荒廃に委されていた。船員がおさらばをきめてゴールドラッシュしたのだ。ついに船員に二百ドルの月給が支給されたが、金鉱夫になるとらくに一日三十ドルになった(もっとも物価の方も、たとえば茶、珈琲《コーヒー》、砂糖が一ポンド四ドル、靴一足四十五ドル、肝心な金掘道具の鶴嘴《つるはし》やショベルが五ドルから十五ドル、という有様だった)。
ざっとこんな海の黄金狂時代のなかから、われわれは二つの新しい現象を見わけることができる。第一は一八四七年に創立され、四九年からニューヨーク・サンフランシスコ間の定期航路を開始した太平洋郵船《パシフィック・メイル》の汽船航路である。第二は、五〇年末からはじまったいわゆるカリフォルニア・クリッパーの帆船航路であった。
このうち第二のものは五〇年正月のマルクスの眼には映じていなかった。その正月三十一日にロンドンで書かれたマルクスの国際評論には、四〇年代に名ばかり南太平洋岸に届いた汽船航路の西端が、堂々東太平洋中岸に延びて、近代資本主義世界を円形にすべく、対極|広東《カントン》に向って一大デモンストレーションを行っている新事態が、「アメリカの発見そのものよりも重大な結果」として分析されている。
[#7字下げ]三 マルクスの評論[#「三 マルクスの評論」は中見出し]
本文冒頭に掲げた句をうけて、マルクスは記している。
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「三百三十年の間、太平洋に向うヨーロッパの全商業は、感心すべき気永《きなが》さであるいは喜望峯を、あるいはケープホーンを迂回《うかい》して行われてきた。パナマ地峡|開鑿《かいさく》の提案はすべてこれまで商民の偏狭な嫉妬心に妨げられて来た。
カリフォルニア金鉱が発見されてから十ヶ月になるが、すでにヤンキーはメキシコ湾方面から鉄道と大国道と運河の工事(1)に着手した。ニューヨークからチャグレスへ、パナマからサンフランシスコへ、汽船はすでに定期航路についている。太平洋の商業はいまやパナマに集中した。ケープホーン迂回航路は古くなった。
緯度三十度にわたる海岸、世界で最も美《うる》わしい最も豊饒なそれでいてこれまで無人の境と選ぶところがなかったこの海岸が、みるみる富裕な文明国と化した。ヤンキーからはじめてシナ人、ネグロ、インディアンならびにマレイ人、欧洲系米人《クレオーレン》、黒白混血種《メスチーゼン》さてはヨーロッパ人にいたるありとあらゆる種類がここに密集した。
カリフォルニアの金は奔湍《ほんたん》となってアメリカ中に、さらに太平洋のアジア沿岸に溢《あふ》れ出る。そして頑固な蛮民を世界商業に、文明にひきいれる。世界商業のうえに再度新方向が到来した。
古代でチルス、カルタゴおよびアレキサンドリアが、中世でゼノアとヴェネチア、そしてきょうが日までロンドンとリヴァープールが世界商業の中心であったように、いまやニューヨークおよびサンフランシスコ、サンジュアン・ド・ニカラグアそしてレオン・チャグレスおよびパナマがそれとなるだろう。
世界交通の重心は中世ではイタリー、近代ではイギリスだったが、今日では北米半島の南半である。旧ヨーロッパの産業と商業は一大奮発の必要がある――もし十六世紀以降のイタリーの産業商業と同じ浮目を見たくなかったら! もしイギリスとフランスが今日のゼノアと同じ運命に立到《たちいた》りたくなかったら!
数年ならずしてイングランドからチャグレスへ、チャグレスおよびサンフランシスコからシドニー、広東《カントン》およびシンガポールへ、汽船の定期就航を見るにいたるだろう。
カリフォルニアの金とヤンキーの不撓《ふとう》の精力のおかげで、太平洋の両岸はたちまちのうちに、今日ボストンからニューオルリーンズにいたる海岸同様の人口を持つこととなり、商業の天地と化するであろう。
そのときこそ太平洋は、今日大西洋がそして古代中世に地中海が演じた同じ役割を――世界交通の大水路たる役割を演ずることとなるだろう。同時に大西洋は、今日の地中海同様の単なる内海の役割にまで没落してしまうのだ。
そのときヨーロッパ文明諸国が今日の、イタリー、スペインおよびポルトガルの轍《てつ》を踏んで産業的、商業的および政治的従属状態に陥らないで済むための唯一のチャンスは、社会革命にある。すなわち、間に合うならば、生産および交通方法を近代的生産諸力から生じつつある生産要求そのものに従って変革し、よってもって新生産諸力の発現を可能にするのである。かくすると
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