きはじめてヨーロッパ産業の優越は確保せられ、地理的状態の損失も埋め合わされるにいたるだろう」(『遺稿集』第三巻四四三頁)。
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 リャザノフが『シナ・インド論』の序文中に引用する箇所はちょうどこの次の行からであるが、十九世紀の極東市場史なかんずく日本開国問題を考察する場合には、太平洋に関するマルクスのこの予言部分はことに重要である。ここには的確な予言とともに、一八四八年を見送った偉大なる革命家の心情もまた吐露されている。だがカリフォルニアの金鉱を契機として方向を規定されたアメリカの繁栄にもかかわらず、ヨーロッパの革命を迎えることもなく英国がその優越を保持しえたについては、五〇年のマルクスにも、いわんやいかなるマルクス批判家にも、予見できないその後の原因があった。それはともかく、事態は数年の間ことごとくマルクスの予言を実現していった。そしてその途上に、日本開国問題が横たわっていた。

[#7字下げ]四 米国海軍委員会の報告[#「四 米国海軍委員会の報告」は中見出し]

 パナマ地峡で連絡されたニューヨーク・サンフランシスコ間の太平洋郵船《パシフィック・メイル》は、四九年二月の処女航路以来非常な景気だった。「パナマ」「オレゴン」「ゴールデン・ゲート」「コロンビア」などの当年切っての優秀船が就航して太平洋横断いつでも来いと待構えた。事実これらの船の大部分が後日ヨコハマへ入ってくる。
 ところで、左の一文は、太平洋汽船航路設定に関する建白書にたいしてなされた米国海軍委員会の報告である。
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「カリフォルニアの獲得はシナとの通商交通にとって閑却すべからざる利便を与えた。汽船によればサンフランシスコ湾からシナにいたる航海を定期に二十日間をもって行いうるものと信じられる。現在行われているパナマ地峡の連絡路によるときは、我国西海岸(カリフォルニア)と大西洋諸都市(ニューヨークその他)の交通は三十日強である。
 かくて太平洋上の汽船路設定はニューヨークをマカオから六十日もかからない距離に置くこととなろう。
 帆船によるシナ貿易はケープホーンを迂回するとき、長期の航海日数を要するため非常な不便を嘗《な》めている。一往復平均十ヶ月を費すものと仮定してよい。これに対してヨーロッパ・シナ間の往復は、平均満十二ヶ月を要するものと考えられる。
 現存の諸便益を利用し、これに加えるに建白書が提案している太平洋ラインをもってすれば、リヴァープール・シナ間の交通は六十日に縮少され、かくてロンドンからシナにいたる冒険的な往復路は、合衆国を経過することによって五ヶ月以内に縮少されることを得、現在の所用日数を半減してなお余りあるものとなる」。
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 太平洋横断汽船路の設定が、シナにたいするロンドンとニューヨークの地位を顛倒《てんとう》するという見通しの点で、この報告書とマルクスの評論は一致するが、海軍専門家の推論は、何らの経済学的なものを含まず、かえって与えられた交通機関にたいする一見不当な比較に基づいている。
 太平洋上の汽船路設定が、パナマ地峡連絡を利用するとき当年の交通技術をもってしてニューヨークをマカオから六十日以下の距離内に近づける、これに間違いない。しかしながら同じく汽船でスエズの地峡連絡を利用した英国のP&Oラインは、同じ一八五〇年の記録で上海、ロンドン間を七十八日、五九年の記録で五十九日で結んでいる。地理上の距離そのもので比較しても、スエズ運河と同様にパナマ運河が利用できるようになったとき、上海からスエズ経由ロンドンへの距離とパナマ経由ニューヨークへの距離とは同一だった。つまり上海以西ならばロンドンに近く、以東ならばニューヨークに近い。
 海軍委員会の報告は比較をリヴァープール(ロンドン)・シナ間――喜望峯経由――ないしニューヨーク・シナ間――ケープホーン経由――の帆船所要日数と新設汽船航路の推定日数との間で行った、はなはだ身勝手な推論だった。だがそれにもかかわらず、この推論に、ある種の合理的な理由が存在していなかったろうか?
 彼阿《ピーオー》ラインといわず、すべて五十年までの汽船は、貨物輸送の点で帆船と競争する能力がなかった。まだ複式機関が発明されてなく、マリンエンジンはすべて低圧の単気筒式だったから――おまけに海水を使っていた――おそろしく石炭を食って金がかかるうえに、寄港地を欠く大洋航海では炭庫に場所を塞がれて貨物庫の余裕が思うほど取れない。だから当年の彼阿《ピーオー》ラインなども、今日の飛行機のように旅客および政府補助金付の郵便物に依頼して、貨物は若干の絹を積むくらいで大部分は帆船に委ねていた。船の大きさも千トンから二千トン級。
 これにたいして黄金狂時代が作り出した太平洋郵船《パシフィック・メイル》の船は、初手から三千トン級の当年での世界的優秀船だった。もしも政府の充分な補助があり、中途に恰好な石炭補給場が見つかりさえすれば、石炭|喰《ぐらい》の単式エンジンをもってしても、両輪《パドル》に太平洋の波をわけてよく貨物の輸送に耐えることができたはずである。
 たんに汽船と帆船を比較したのでなく、貨物輸送に耐えうる条件下の汽船と帆船を比較したものとすれば、海軍委員会の報告は単に合理的であるばかりでなく、英国にたいする米国当年の絶大な気力を――マルクスが指摘したごときカリフォルニアに基づく経済的優越力を、たまたま吐露したものということができる。
 だが、いかに強力な補助金が与えられたにしても、一方サンフランシスコ・広東《カントン》(上海)間に石炭のための寄港地がなかったら、前記の技術条件の下では物にならない。
 かくて日本問題が、この日以来全然新しい視角から米国上下の関心事となった。

[#7字下げ]五 「和親」条約[#「五 「和親」条約」は中見出し]

 旧市場の拡張と新市場の獲得とが問題のいっさいだった産業資本主義発展期の当年にあって、かりそめにも、「和親」はするが貿易はおことわりだといった種類の条約が、足掛《あしかけ》五年も続いたというのはどうしたことか! 結婚はあきらめましょう。兄妹としていつまでも愛して頂戴などという類《たぐい》のたわごとが、三十代の壮年資本主義国に適用するはずがない。
 ペリーとハリスことにハリスを、幕府が頑《かたく》なな処女のように貿易だけはというのを、脅したりすかしたりで結局物にしたその道の名外交官扱いにするのは勝手であるが、しかし「和親条約」はそれだけで立派な存在理由をもっていた。
「亜墨利加《アメリカ》船、薪水《しんすい》、食糧、石炭、欠乏の品を、日本人にて調《ととの》へ候|丈《だけ》は給し候為、渡来の儀差し許し候」――サンフランシスコと上海をつなぐうえに不可欠な Port of Call――ことに石炭のための寄港地として、ヨコハマがぜがひでも当年のアメリカに必要だったのである。
 新市場候補地としての日本は、シナ市場のつぎに来るべきものとして、すでに三〇年代から米国の予算にはいっていた。一八三二年のアジア修好使エドムンド・ロバーツにたいしても、シャムその他の後にするも可なりという但書付で、日本訪問が指令されていた。一八四五年には下院議員ブラットの対日朝[#「日朝」に傍点]通商建議案が提出されて、ビッドルが浦賀へやってきたがまことに穏やかな交渉振で、五〇年代にはいってから、「日本人に対し寛大に失せるの嫌《きらい》あり」と、あとから叱られている。
 ビッドルに罪はないので、カリフォルニアの黄金狂時代が線を画した五〇年代が、アメリカの対日態度を一変させたのである。従前の新市場候補地としての日本に加えて、旧市場しかも久しく英国との競争下にあるシナ市場において決定的な勝利を一挙に奪取するための必要不可欠な前提条件としての日本――横断太平洋汽船のための寄港地としての日本――が新しく認識されたのである。
 まず、「ボムベンおよび焼玉を放発して」も日本を開港させずにはおかぬという凄文句の手紙で五〇年代があける――
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「……アメリカ通商のためその湊港を開き、かつサンフランシスコより、上海広東に通路すべき蒸汽船のため、松前、対馬、琉球の地に、石炭場を設る趣向を促し、もしその談判を将軍の方および執政が拒むにおいては、日本政府承服に及ぶまで、その都府にボムベンおよび焼玉を放発して、国中の湊港を閉塞し、恨《うらみ》を日本国に晴さん、この意|頻《しき》りに止《やま》ざる所なり云々」(一八五〇年、元ニューヨーク州外事局長A・H・パーマーより、長崎オランダ商館長レフィーソンに送った私信、実質は非公式の外交文書である)。
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 つぎは五一年六月十日付の海軍中佐ジェームス・グリンの建議案。彼はブレブル艦長として四九年に長崎へ乗込み、ラゴダ号事件に関して強硬な態度をとっている。やはりカリフォルニア・シナ間の汽船定期航路を開始するためには米日間に通商条約を締結する必要があるゆえんを陳《の》べ、「この手段早晩必ず着手を要するものにして、もし平和的手段によりて成功を見ざる時は、兵力に訴うるも必ず成就せしめざるべからず」と力説している。
 同年、いよいよ正式に日本問題を解決すべく、米国東インド艦隊司令長官オーリックを特使に任じたときの公式対日要求条項は、五〇年以前のもっぱらなる要求だった米捕鯨船遭難者の救助と自由貿易の二項目にあわせて、最後に五〇年代の新たな項目たる米支間横断汽船用の貯炭所問題が掲げられている。
 持前の癇癖にたたられて中途で免職になったオーリックに代って、いよいよペリーの幕だ。五二年十一月のペリーにたいする訓示中、左の箇条書の部分を、マルクス前掲文と参照すると興味がある。
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「(一) 近時汽力による太平洋横断航路開かれし事(開かれんとするの誤か? 事実まだ開けてはいないのだ。田保橋氏『外国関係史』を参照)
 (二) 合衆国が太平洋沿岸に広大なる植民地を獲得せし事
 (三) 該植民地に金鉱の発見せられし事
 (四) パナマ地峡の交通頻繁となりたる事、は、東洋諸国と合衆国との関係を著しく密接ならしめたり云々」。
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 で、日本への要求条項は、オーリックの場合と同じ三項目である。第二項が例の一件で「合衆国船舶が薪水食料を補給し、また海難の際にはその航海を継続するに必要なる修理を加えんがために、日本国内の一港もしくは数港に入る承諾をうること。日本国沿岸の一港もしくは少くもその近海に散在せる無人島の一に、貯炭所を設置するの権を獲得する事」とある。
 ペリーの使命をもって「帝国主義的」などと記す者があるに至っては言語道断だが、英国との間の見境もなく、たんに通商第一主義とのみ見るのも不充分であるゆえんは、すでにあきらかだと思う。第一、彼の大艦隊自身が、寄港地のない不安な太平洋路を採る代りに、マデイラ、セントヘレナ、ケープタウン、コロンボ、シンガポール、香港、上海、那覇とたどってそこからいよいよ江戸湾へ乗入れる前に、まず小笠原群島父島へ立寄って、殖民代表米人某から貯炭所用地百六十五エーカーを買入れている。
 これが五三年、そして「和親」条約が五四年。で、この年までは横断太平洋汽船航路が開けなかったにしても、この年以後はいつでも開ける手はずができたわけである。ところが太平洋を横断する貨物船航路は、この年を待たずすでに五一年から開けていた。五〇年正月のマルクスの眼に映じていなかった一現象――海の黄金狂時代が太平洋郵船ラインとともに生み出したいま一つのヒロイン――たるカリフォルニアン・クリッパーについて語らねばならぬ。

[#7字下げ]六 「フライング・クラウド」[#「六 「フライング・クラウド」」は中見出し]

 五〇年代の汽船をもってしては、よほどの補助金でもない限り、貨物を帆船と争うことはできなかった。ヘンリー航海王以来の帆船時代はまだ終るどころか、かえってこうした事情に直面して、五〇年
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