いた。一八四五年には下院議員ブラットの対日朝[#「日朝」に傍点]通商建議案が提出されて、ビッドルが浦賀へやってきたがまことに穏やかな交渉振で、五〇年代にはいってから、「日本人に対し寛大に失せるの嫌《きらい》あり」と、あとから叱られている。
 ビッドルに罪はないので、カリフォルニアの黄金狂時代が線を画した五〇年代が、アメリカの対日態度を一変させたのである。従前の新市場候補地としての日本に加えて、旧市場しかも久しく英国との競争下にあるシナ市場において決定的な勝利を一挙に奪取するための必要不可欠な前提条件としての日本――横断太平洋汽船のための寄港地としての日本――が新しく認識されたのである。
 まず、「ボムベンおよび焼玉を放発して」も日本を開港させずにはおかぬという凄文句の手紙で五〇年代があける――
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「……アメリカ通商のためその湊港を開き、かつサンフランシスコより、上海広東に通路すべき蒸汽船のため、松前、対馬、琉球の地に、石炭場を設る趣向を促し、もしその談判を将軍の方および執政が拒むにおいては、日本政府承服に及ぶまで、その都府にボムベンおよび焼玉を放発して、国中の湊港を閉塞し、恨《うらみ》を日本国に晴さん、この意|頻《しき》りに止《やま》ざる所なり云々」(一八五〇年、元ニューヨーク州外事局長A・H・パーマーより、長崎オランダ商館長レフィーソンに送った私信、実質は非公式の外交文書である)。
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 つぎは五一年六月十日付の海軍中佐ジェームス・グリンの建議案。彼はブレブル艦長として四九年に長崎へ乗込み、ラゴダ号事件に関して強硬な態度をとっている。やはりカリフォルニア・シナ間の汽船定期航路を開始するためには米日間に通商条約を締結する必要があるゆえんを陳《の》べ、「この手段早晩必ず着手を要するものにして、もし平和的手段によりて成功を見ざる時は、兵力に訴うるも必ず成就せしめざるべからず」と力説している。
 同年、いよいよ正式に日本問題を解決すべく、米国東インド艦隊司令長官オーリックを特使に任じたときの公式対日要求条項は、五〇年以前のもっぱらなる要求だった米捕鯨船遭難者の救助と自由貿易の二項目にあわせて、最後に五〇年代の新たな項目たる米支間横断汽船用の貯炭所問題が掲げられている。
 持前の癇癖にたたられて中途で免職になったオーリックに代って
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