パシフィック・メイル》の船は、初手から三千トン級の当年での世界的優秀船だった。もしも政府の充分な補助があり、中途に恰好な石炭補給場が見つかりさえすれば、石炭|喰《ぐらい》の単式エンジンをもってしても、両輪《パドル》に太平洋の波をわけてよく貨物の輸送に耐えることができたはずである。
 たんに汽船と帆船を比較したのでなく、貨物輸送に耐えうる条件下の汽船と帆船を比較したものとすれば、海軍委員会の報告は単に合理的であるばかりでなく、英国にたいする米国当年の絶大な気力を――マルクスが指摘したごときカリフォルニアに基づく経済的優越力を、たまたま吐露したものということができる。
 だが、いかに強力な補助金が与えられたにしても、一方サンフランシスコ・広東《カントン》(上海)間に石炭のための寄港地がなかったら、前記の技術条件の下では物にならない。
 かくて日本問題が、この日以来全然新しい視角から米国上下の関心事となった。

[#7字下げ]五 「和親」条約[#「五 「和親」条約」は中見出し]

 旧市場の拡張と新市場の獲得とが問題のいっさいだった産業資本主義発展期の当年にあって、かりそめにも、「和親」はするが貿易はおことわりだといった種類の条約が、足掛《あしかけ》五年も続いたというのはどうしたことか! 結婚はあきらめましょう。兄妹としていつまでも愛して頂戴などという類《たぐい》のたわごとが、三十代の壮年資本主義国に適用するはずがない。
 ペリーとハリスことにハリスを、幕府が頑《かたく》なな処女のように貿易だけはというのを、脅したりすかしたりで結局物にしたその道の名外交官扱いにするのは勝手であるが、しかし「和親条約」はそれだけで立派な存在理由をもっていた。
「亜墨利加《アメリカ》船、薪水《しんすい》、食糧、石炭、欠乏の品を、日本人にて調《ととの》へ候|丈《だけ》は給し候為、渡来の儀差し許し候」――サンフランシスコと上海をつなぐうえに不可欠な Port of Call――ことに石炭のための寄港地として、ヨコハマがぜがひでも当年のアメリカに必要だったのである。
 新市場候補地としての日本は、シナ市場のつぎに来るべきものとして、すでに三〇年代から米国の予算にはいっていた。一八三二年のアジア修好使エドムンド・ロバーツにたいしても、シャムその他の後にするも可なりという但書付で、日本訪問が指令されて
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