、いよいよペリーの幕だ。五二年十一月のペリーにたいする訓示中、左の箇条書の部分を、マルクス前掲文と参照すると興味がある。
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「(一) 近時汽力による太平洋横断航路開かれし事(開かれんとするの誤か? 事実まだ開けてはいないのだ。田保橋氏『外国関係史』を参照)
(二) 合衆国が太平洋沿岸に広大なる植民地を獲得せし事
(三) 該植民地に金鉱の発見せられし事
(四) パナマ地峡の交通頻繁となりたる事、は、東洋諸国と合衆国との関係を著しく密接ならしめたり云々」。
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で、日本への要求条項は、オーリックの場合と同じ三項目である。第二項が例の一件で「合衆国船舶が薪水食料を補給し、また海難の際にはその航海を継続するに必要なる修理を加えんがために、日本国内の一港もしくは数港に入る承諾をうること。日本国沿岸の一港もしくは少くもその近海に散在せる無人島の一に、貯炭所を設置するの権を獲得する事」とある。
ペリーの使命をもって「帝国主義的」などと記す者があるに至っては言語道断だが、英国との間の見境もなく、たんに通商第一主義とのみ見るのも不充分であるゆえんは、すでにあきらかだと思う。第一、彼の大艦隊自身が、寄港地のない不安な太平洋路を採る代りに、マデイラ、セントヘレナ、ケープタウン、コロンボ、シンガポール、香港、上海、那覇とたどってそこからいよいよ江戸湾へ乗入れる前に、まず小笠原群島父島へ立寄って、殖民代表米人某から貯炭所用地百六十五エーカーを買入れている。
これが五三年、そして「和親」条約が五四年。で、この年までは横断太平洋汽船航路が開けなかったにしても、この年以後はいつでも開ける手はずができたわけである。ところが太平洋を横断する貨物船航路は、この年を待たずすでに五一年から開けていた。五〇年正月のマルクスの眼に映じていなかった一現象――海の黄金狂時代が太平洋郵船ラインとともに生み出したいま一つのヒロイン――たるカリフォルニアン・クリッパーについて語らねばならぬ。
[#7字下げ]六 「フライング・クラウド」[#「六 「フライング・クラウド」」は中見出し]
五〇年代の汽船をもってしては、よほどの補助金でもない限り、貨物を帆船と争うことはできなかった。ヘンリー航海王以来の帆船時代はまだ終るどころか、かえってこうした事情に直面して、五〇年
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