京伝は初めて屈托なさそうに笑った。「こいつアいい。医者の名前まで貰いながら、生きた人間が診《み》られねえとは、変った人だ。――だが、何んだぜ。生きた人間を診察出来ねえようじゃ、到底戯作の筆は把《と》れアしねえぜ」
「そりゃまたなぜでございます」
「積っても見るがいゝ。この世間の、ありとある幸不幸を、背負《しょ》って生れて来た人間を、筆一本で自由自在に、生かしたり殺したりしようというのが、戯作者の仕事じゃねえか。それだのにお前さん、生きた人間は怖いなんぞと、胆ッ玉の小さなことをいってたんじゃ、これア見世の出しようがねえやな」
「ど、どういたしまして」馬琴はあわてて遮った。「そんなんじゃございません。生きた人間と申しましても、患者、つまり病人を診るのがいやだと申しましたんで。……なアに、筆でやりますことならば、二日や三日寝ずに通しましても、決して辛いとは思やアしません。どうかこの上は、人間一人を助けると思し召して、先生の御門下にお加え下さいますよう、お願い申上げます」
「ふゝゝ」京伝は安親《やすちか》の蘭彫のある煙管《きせる》を無雑作に掴んで、火鉢の枠をはたいた。「人間一人といいなさるが、
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