子屋机の前に、袴も取らずに坐っていた馬琴は、何んと思ったか、急にその場へごろりと横になると、如何にも屈托なさそうな欠伸《あくび》をした。
「何かうまい物が、腹一杯食って見てえな。二三日して、京伝の家の居候になりゃア、盗み食いをしない限り、腹一杯は食えねえことになってるんだ。――だが、銭はなし。米はあるが虫ころげだし、せめて久し振りで鰯の顔ぐらい、見せてくれる親切な人ア、長屋中にゃアねえものかなア」
「もし、瀧沢さん。お客様がお見えなさいましたよ」
「えッ」
 馬琴はこの声を聞くと、起き上り小法師のように、古畳の上へ起き直った。
「どうもこりゃアお上さん、お世話様でげした」
 そういう声に、馬琴は聞き覚えがなかった。が、そのまゝではいられなかったと見えて、土間から油障子の外へ首を伸した。
「おいでなさいまし」
 入口に立っていた男は、「ふん」と鼻の先で顎を掬《しゃく》った。
「お前さんは、さっき山東庵へおいでなすった、馬琴さんでげしょうね」
「はい、わたくしが、お尋ねの馬琴でございます」
「あっしゃア京伝の弟の、京山という者さ」
「あゝ左様でございましたか。存じませぬことゝて、これはどう
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