御開板の遊人三幅対、夏祭其翌年、小野篁伝、天明に移りましては、久知満免登里《くちまめどり》、七笑顔当世姿、御存商売物、客人女郎不案配即席料理、悪七変目景清、江戸春一夜千両、吉原楊枝、夜半の茶漬。なおまた昨年中の御出版は、一百三升芋地獄から、読本の通俗大聖伝まで、何ひとつ落した物のないまでに、拝読いたしてまいりました」
「うむ、そうかい」
聞いているうちに、いつか京伝の膝は、火桶を脇へ突きのけて、座布団の上から滑り落ちていた。
「よく読んだの」
「はいおかげさまで。……」
「しかし、現在お前さんは、何をして暮しているんだの」
「只今は、これぞと申すこともいたしては居りませぬが、曾てはお旗本の屋敷に奉公いたしましたり山本宗英《やまもとそうえい》先生の許に御厄介になって、医術を学んだこともございます」
「ほうお医者さんの崩れかい。それじゃその道で、おまんまは食べられるという訳合《わけあい》か」
「さア、そうまいれば、不足はないのでございますが、宗仙《そうせん》という名前は貰いましたものゝ、まだまだ生きた人間を診察いたしますことなどは、怖くて、容易に手出しは出来ませぬ」
「あッはッはッ」と、京伝は初めて屈托なさそうに笑った。「こいつアいい。医者の名前まで貰いながら、生きた人間が診《み》られねえとは、変った人だ。――だが、何んだぜ。生きた人間を診察出来ねえようじゃ、到底戯作の筆は把《と》れアしねえぜ」
「そりゃまたなぜでございます」
「積っても見るがいゝ。この世間の、ありとある幸不幸を、背負《しょ》って生れて来た人間を、筆一本で自由自在に、生かしたり殺したりしようというのが、戯作者の仕事じゃねえか。それだのにお前さん、生きた人間は怖いなんぞと、胆ッ玉の小さなことをいってたんじゃ、これア見世の出しようがねえやな」
「ど、どういたしまして」馬琴はあわてて遮った。「そんなんじゃございません。生きた人間と申しましても、患者、つまり病人を診るのがいやだと申しましたんで。……なアに、筆でやりますことならば、二日や三日寝ずに通しましても、決して辛いとは思やアしません。どうかこの上は、人間一人を助けると思し召して、先生の御門下にお加え下さいますよう、お願い申上げます」
「ふゝゝ」京伝は安親《やすちか》の蘭彫のある煙管《きせる》を無雑作に掴んで、火鉢の枠をはたいた。「人間一人といいなさるが、
前へ
次へ
全13ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
邦枝 完二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング