子屋机の前に、袴も取らずに坐っていた馬琴は、何んと思ったか、急にその場へごろりと横になると、如何にも屈托なさそうな欠伸《あくび》をした。
「何かうまい物が、腹一杯食って見てえな。二三日して、京伝の家の居候になりゃア、盗み食いをしない限り、腹一杯は食えねえことになってるんだ。――だが、銭はなし。米はあるが虫ころげだし、せめて久し振りで鰯の顔ぐらい、見せてくれる親切な人ア、長屋中にゃアねえものかなア」
「もし、瀧沢さん。お客様がお見えなさいましたよ」
「えッ」
馬琴はこの声を聞くと、起き上り小法師のように、古畳の上へ起き直った。
「どうもこりゃアお上さん、お世話様でげした」
そういう声に、馬琴は聞き覚えがなかった。が、そのまゝではいられなかったと見えて、土間から油障子の外へ首を伸した。
「おいでなさいまし」
入口に立っていた男は、「ふん」と鼻の先で顎を掬《しゃく》った。
「お前さんは、さっき山東庵へおいでなすった、馬琴さんでげしょうね」
「はい、わたくしが、お尋ねの馬琴でございます」
「あっしゃア京伝の弟の、京山という者さ」
「あゝ左様でございましたか。存じませぬことゝて、これはどうも御無礼いたしました。――御覧の通りの漏屋《ろうおく》ではございますが、どうか、こちらへお上んなすって下さいまし」
横柄な態度から察しても、これはてっきり、京伝の使いとして、きょうからでも山東庵へ来るようにと、その言伝《ことづ》てに来たのだと、馬琴は早合点した。
「折角だが、上って話をする程の、大事な用じゃアねえんで。……」
「どのような御用でございましょう」
「おめえさんに、もう二度と再び、銀座へは来て貰いたくねえと、その断りに来やしたのさ」
「えッ」
「どうだ。こいつアちったア身に沁みたろう。――ふゝゝ。おめえのような、そんな高慢ちきな男ア大嫌えなんだ」
吐き出すようにこういった京山は、仲蔵《なかぞう》もどきで、突袖の見得を切った。
馬琴は、薄気味悪くニヤリと笑った。
「そりゃアどうも、わざわざ御苦労様でございました」
「なんだって」
「御苦労様でございましたと、お礼を申して居りますんで。……この雪道を、わざわざおいで下さいませんでも、それだけの御用でしたら、今度伺いました時に、そう仰しゃって頂きさえすりゃ、それで用は足りましたのに、却って恐縮で、お詫の申しようもございません
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