「そんな気永に、待っていられるかい。それに第一、おめえを嫌いなゝア、兄貴じゃなくっておいらなんだ」
「これは面白い。では京伝先生は、別に何も仰しゃったという訳じゃございませんので。……」
「兄貴がいおうがいうめえが、おいらがいやならおんなじこった」
「どういたしまし。それア飛んだ御料簡違いでございましょう。わたくしは、何もお前さんの門弟になりたいとは、夢にもお願いした覚えはありアしません。京伝先生のお弟子にして頂きたいのがかねてからの心願でございました。こりゃアいくらお屠蘇の加減でも、つまらない見当違いの矢を、向けておいでなさいましたな。まったくそんな御用なら、上って頂くにも及びますまい。どうかさっさとお帰んなすっておくんなさいまし」
「帰れといわれなくっても、誰がこんな薄汚ねえ家に、いつまでいられるかい。――土産のしるしだ取ってきねえ」
 京山はこういって、蜜柑箱に一杯詰めた馬糞を馬琴の膝許へ叩き付けるが否や、如何にもさばさばしたように笑いながら、一目散に、路地の入口へ走って行った。
 座敷一杯に散らばった馬糞を、暫し黙って見詰めていた馬琴は、突然、今までにないような愉快な声を揚げて、わッはッはと笑いこけた。
「あいつ、延喜《えんぎ》のいゝことをしてくれたもんだ。新年早々黄金饅頭を撒き込んでくれるなんざ、ふだん女郎の尻を撫でてるだけのことアある。――よし、今度京伝を訪ねる時にゃ、これをこのまゝ土産に持ってッてやるとしよう。だがあいつ、京伝の文句じゃねえが、下手な戯作の一つや二つ書いたからって、あんまり調子付くと、今に水瓶の中へ飛び込むぜ」
 若い馬琴はもう一度、盲目の蟋蟀のたとえを思い出して、大の字なりに寝ころんだまゝ、大きな笑い声を天井へ浴せかけた。



底本:「昭和のエンタテインメント50篇(上)」文春文庫、文芸春秋
   1989(平成元)年6月10日第1刷
底本の親本:「オール讀物 増刊号」文芸春秋
   1988(昭和63)年7月
入力:網迫、大野晋
校正:山本弘子
2008年5月21日作成
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