就くとそのまゝ眠りに落ちたので、実をいえば今朝方|厠《かわや》へ起きるまでは、これから先の暮し方など、とやこう考えていた訳ではなかった。
 それを、誰れが貼ったのやら、ふと、長屋の厠の壁押えに、京伝作の「江戸生艶気樺焼《えどうまれうわきのかばやき》」の二三枚が貼り附けてあったところから、急に思い付いたのが、京伝へ弟子入の一件であった。
 もとよりきらいな道ではなかった。が、戯作で身を立てようとは、きょうがきょうまで考えてはいなかった。
 行けばきっと、こっちの風体を見て、この男に戯作の筆は把れやアしめえ、と考えた挙句、京伝はこれまで黄表紙の一つも読んだことがあるかと、訊くに相違あるまいと思った馬琴は、まだ夜の明けないうちに、あわてて長屋を飛び出すと、雪の中を跣足《はだし》のまゝ、まず通油町の耕書堂と鶴仙堂へ飛んで行った。こゝの主人《あるじ》重三郎《じゅうざぶろう》と喜右衛門《きえもん》の丹念は、必ずや開板《かいはん》目録を拵《こし》らえてあることを、考えたからであった。
 果せるかな、両軒共に、己が見世の開板目録を備えて、田舎への土産の客を待っていた。
 家へ取って返す道々にも、馬琴はその目録を、眼から離さなかった。おかげで危うく、魚河岸帰りの武蔵屋の荷に、突当りそうになったのを避けは避けたが、一張羅の着物は、腰のあたりを泥だらけにされてしまった。――京伝を訪れた時、襞切れの袴を着けていたのは、まさしくそれがためだった。
 それ程熱心に読んで来たせいであろう。長屋の敷居を跨いだ時には、馬琴は両目録中の京伝の著作は、年代順に暗記してしまっていた。
 だから京伝が「洒落本の一つも読みなすったか」と訊いた、あの時の馬琴は、内心しめたと、ひそかに腹の中で手を拍《う》っていたに相違なかろう。
「この長屋中の人達にも、当分会えなかろう。だが、厄介者が一人減るんだ。喜んでくれるかも知れねえ」
 時々はお医者の代りもしてくれる、調法な人だとは思っていながら、半月も一月も家を空けたりいるかと思えば、夜夜中でも本を読むか、字を書いている変り者の馬琴には、流石に金棒引の連中も、嫁一人世話しようという者がいなかった。が、男世帯の不自由には、いずれも同情していたのであろう。時々は芋が煮えた、目刺が焼けたと、気はこゝろの少しばかりでも、持って来てくれる世話焼は二人や三人ないでもなかった。
 寺
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