《え》のように黄色く浮んだ。
「おや、何か御用ですかえ」
 それは正《まさ》しく、お近のお袋の声だった。
「ちっとばかり、お近さんに用ありさ。――まア御免よ」
 ただそれだけいって、駐春亭《ちゅうしゅんてい》の料理の笹折《ささおり》をぶら提《さ》げた歌麿の姿は、雨戸の中へ、にゅッと消えて行った。
「いけねえ。師匠はやっぱり慣《な》れている。――」
 茫然《ぼうぜん》と見守っていた亀吉は、歌麿の姿が吸いこまれたのを見定めると、嫉妬《しっと》まじりの舌打を頬冠りの中に残して、元来《もとき》た縁生院《えんじょういん》の土塀《どべい》の方へ引返した。
 中へはいった歌麿は、如才《じょさい》なく、お袋に土産物《みやげもの》を渡すが否や、いっぱしの馴染《なじみ》でもあるかのように、早くも三畳の間《ま》へ上り込んでしまったが、それでもさすがに気が差したのであろう、ふところから手拭を取出して、額《ひたい》ににじんだ汗を拭くと、立ったまま小声で訊ねた。
「お近さんは留守かい」
「いやだよ。そんな大きな眼をしてながら、よく御覧なね。その屏風《びょうぶ》の向うに、芋虫《いもむし》のように寝てるじゃないか」
「芋虫。――うん、こいつア恐れ入った」
 なるほど、お袋のいった通り、次の間《ま》の六畳の座敷に、二枚|折《おり》の枕屏風にかこまれて、薩摩焼《さつまやき》の置物をころがしたように、ずしりと体を横たえたのが、亀吉の謂《い》う「五色墨」なのであろう。昼間飲んだ酒に肥った己《おの》が身を持て余《あま》していると見えて、真岡《もうか》木綿《もめん》の浴衣《ゆかた》に、細帯をだらしなく締めたまま西瓜《すいか》をならべたような乳房もあらわに、ところ狭きまで長々と寝そべっている姿が、歌麿の目に映《えい》じた。
「お近さん」
「え。――」
 突然聞き馴《な》れない男の声で呼び起されたお近は、びくッ[#「びくッ」に傍点]として歌麿の顔を見つめた。
「よく内にいたの」
「お前さん、誰さ」
「ゆうべおめえに可愛がってもらった、あの亀吉の伯父だ」
「え、あの人の伯父さんだって」
「そうよ。そんなにびっくりするにゃ当らねえ。なぜおれの甥を可愛がってくれたと、物言いをつけに来た訳《わけ》でもなけりゃ、遊んだ銭を返してもらいに来た訳でもねえんだ。おまえに、ちっとばかり頼みがあって、わざわざ駐春亭《ちゅうしゅんてい》の料理まで持って出かけて来たくれえだからの」
「おや、何んて酔狂《すいきょう》な人なんだろう。あたしのような者に、頼みがあるなんて。――」
 そういいながら、ようやく起き上ったお近はべたり[#「べたり」に傍点]ととんび脚《あし》に坐ると、穴のあくほど歌麿の顔を見守った。
「おかしいか」
「そうさ。あたしゃお前さんが思ってるほど、頼《たよ》りになる女じゃあないからねえ」
「うん、その頼りにならねえところを見込んで頼みに来たんだ。――それ、少ねえが、礼は先に出しとくぜ」
 親指の爪先《つまさき》から、弾《はじ》き落すようにして、きーんと畳の上へ投げ出した二|分金《ぶきん》が一枚、擦《す》れた縁《へり》の間へ、将棋《しょうぎ》の駒のように突立った。
「おや、それアお前さん、二分じゃないか」
 お近は手にしていた煙管《きせる》の雁首《がんくび》で、なま新らしい二分金を、手許《てもと》へ掻《か》きよせたが、多少気味の悪さを感じたのであろう。手には取らないでそのまま金と歌麿の顔とを、四分六分にじっと見つめた。
「どうだの。ひとつ、頼みを聞いちゃくれめえか」
「さアね。大籬《おおまがき》の太夫衆《たゆうしゅう》がもらうような、こんな御祝儀を見せられちゃ、いやだともいえまいじゃないか。だがいったい、見ず知らずのお前さんの、頼みというのは何さ。あたしの体で間に合うことならいいが、観音様の坊さんを頼んで、鐘搗堂《かねつきどう》の鐘《かね》をおろして借りたいなんぞは、いくら御祝儀をもらっても、滅多《めった》に承知は出来ないからねえ」
「姐《ねえ》さん、おめえ、なかなか洒落者《しゃれもの》だの」
「おだてちゃいけないよ」
「おだてやしねえが、観音様の鐘は気に入った。だが、おいらの頼みはそんなんじゃねえ。観音様の鐘のように大きいおめえの体を、二時《ふたとき》ばかりままにさせてもらいてえのよ」
「あたしの体を。――」
「そうだ。噂《うわさ》に違《たが》わず素晴らしいその鉄砲乳が無性《むしょう》に気に入ったんだ。年寄だけが不足だろうが、さりとて何も、おめえを抱《だ》いて寝ようというわけじゃねえ。ただおめえが、おいらのいう通りにさえなってくれりゃ、それでいいんだ。――どうだの、お近さん。ひとつ、色よい返事をしちゃアくれめえか」
 ぐっと一膝《ひとひざ》乗り出した歌麿の眼は、二十の男のような情熱に
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