燃えて、ともすれば相手の返事も待たずに、その釣鐘型の乳房へ、手を触《ふ》れまじき様子だった。
「ほほほ。改《あらた》まっていうから、どれほど難《むず》かしい頼みかと思ったら、いっそ気抜けがしちまったよ。二時《ふたとき》でも三時《みとき》でも、あたしの体で足《た》りる用なら気のすむまで、ままにするがいいさ」
「うむ、そんなら、承知してくれるんだな」
「あいさ、承知はするよ。だがお前さん、抱いて寝ようというんでなけりゃ、どうする気なのさ。まさかあたしのこの乳を、切って取ろうというんじゃあるまいね」
「うふふ、つまらぬえ心配はしなさんな。命に別条《べつじょう》はありゃアしねえ。ただおめえに、そのまま真《ま》ッ裸《ぱだか》になってもらいてえだけさ」
「ええ裸になる。――」
「きまりが悪いか。今更きまりが悪いもなかろう。――十年振りで、おまえのような体の女に巡《めぐ》り合ったは天の佑《たす》け、思う存分、その体を撫で廻しながら、この紙に描《か》かしてもらいてえのが、おいらの頼みだ」
「そんならお前さんは、絵師《えかき》さんかえ」
「まアそんなものかも知れねえ」
「面白くもない人が飛込んで来たもんだねえ。あたしの体は枕絵《まくらえ》のお手本にゃならないから、いっそ骨折損だよ」
 しかし、そういいながらも、ぬっと立上った女は、枕屏風を向うへ押しやると、いきなり細帯をするすると解《と》いて、歌麿の前に、颯《さっ》と浴衣《ゆかた》を脱《ぬ》ぎすてた。
「さ、速《はや》くどッからでも勝手に描《か》いたらどう」
 おそらく昼間飲んだ酒の酔《よい》を、そのまま寝崩れたためであろう。がっくりと根の抜けた島田|髷《まげ》は大きく横に歪《ゆが》んで、襟足《えりあし》に乱れた毛の下に、ねっとりにじんだ脂汗《あぶらあせ》が、剥《は》げかかった白粉を緑青色《ろくしょういろ》に光らせた、その頸筋《くびすじ》から肩にかけての鮪《まぐろ》の背のように盛り上った肉を、腹のほうから押し上げて、ぽてり[#「ぽてり」に傍点]と二つ、憎いまで張り切った乳房のふてぶてしさ。しかも胸の山からそのまま流れて、腰のあたりで一度大きく波を打った肉は、膝への線を割合にすんなり見せながら、体にしては小さい足を内輪に茶色に焼けた畳表を、やけに踏んでいるのだった。
「どうしたのさ、お前さん、早く描かなきや、行燈《あんどん》の油が勿体《もったい》ないじゃないか」
 が、歌麿は腰の矢立を抜き取ったまま、視線を釘附《くぎづけ》にされたように、お近の胸のあたりを見つめて動こうともしなかった。
「ちぇッ、なんて意気地がない人なんだろう」
 そういって女が苦笑した刹那《せつな》だった。入口の雨戸が開いたと思う間もなく「おや、これは旦那」というお袋の声が聞えたが、すぐに頭の上で、追っかぶせるように、「こいつアめずらしい、歌麿だな」という皮肉な男の声が、いきなり歌麿の耳朶《じだ》を顫《ふる》わせた。
「あッ。――」
「まア待ちねえ。逃げるにゃ及ばねえ」
「へえ。――」
 しかし、こう答えた時の歌麿は、もはや入口の閾《しきい》を跨《また》いで、路地の溝板《どぶいた》を踏《ふ》んでいた。
「か、駕籠屋《かごや》。か、茅場町《かやばちょう》だ。――」
 跣足《はだし》の歌麿は、通りがかりの駕籠屋を呼ぶにさえ、満足に声が出なかった。

        三

 自分の家の畳の上に坐って、雇婆《やといばばあ》の汲《く》んでくれた水を、茶碗に二杯立続けに飲んでも、歌麿は容易に動悸《どうき》がおさまらなかった。
 あの顔、あの声、あの足音。――それは如何《いか》に忘れようとしても、忘れることの出来ない、南町奉行《みなみまちぶぎょう》の同心《どうしん》、渡辺金兵衛の姿なのだ。――
「つね。おもての雨戸の心張《しんばり》を、固くして、誰が来ても、決して開けちゃならねえぞ」
「はい」
「酒だ。それから、速く床をひいてくんねえ」
 まごまごしている雇婆を急《せ》き立《た》てて、冷《ひや》のままの酒を、ぐっと一息に呷《あお》ると、歌麿の巨体は海鼠《なまこ》のように夜具の中に縮まってしまった。
「ああいやだ。――」
 もう一度、ぶるぶるッと身を顫《ふる》わせた歌麿は、何とかして金兵衛の姿を、眼の先から消そうと努《つと》めた。が、そうすればする程、却《かえ》ってあの鬼のような金兵衛の顔は、まざまざと夜具の中の闇から、歌麿の前に迫るばかりであった。
「もう二度と、白洲《しらす》の砂利《じゃり》は踏《ふ》みたくねえ」
 歌麿は誰にいうともなく、拝《おが》むようにこういって、掌《て》を合せた。
 その記憶は、五十日の手錠《てじよう》の刑に遭《あ》った、あの一昨年の一件に外ならなかった。

 つばくろの白い腹がひらりとひとつ返る度毎に、空の色が澄ん
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