でくる、五月の半《なか》ばだった。前夜|画会《がかい》の崩《くず》れから、京伝《きょうでん》、蜀山《しょくさん》、それに燕十《えんじゅう》の四人で、深川|仲町《なかちょう》の松江《まつえ》で飲んだ酒が醒《さ》め切れず、二日酔の頭痛が、やたらに頭を重くするところから、おつねに附けさせた迎い酒の一本を、寝たままこれから始めようとしていたあの時、格子の手触《てざわ》りも荒々しく、案内も乞わずに上って来た家主の治郎兵衛は、歯の根も合わぬまでに、あわてて歌麿の枕許へにじり寄った。
「これはどうも。――」
 歌麿は家主の顔を見ると同時に、唯事でないのを直感したもののそれにしても何んのことやら訳《わけ》がわからず、重い頭を枕から離すと棒を呑んだように、布団の上に起き直った。
「大層お早くから、どんな御用で。――」
「歌麿さん」
 治郎兵衛は、まず改めて歌麿の名を呼んでから、ごくりと一つ固唾《かたず》を飲んだ。
「へえ」
「お前さん、お気の毒だが、これから直ぐに、わたしと一緒にお奉行所まで、行ってもらわにゃならねえんだが。……」
「奉行所へ」
「うむ」
「何かの証人にでも招《よ》ばれますんで。――」
「ところが、そうでないんだ。お前さんのことで、今朝方、自身番から差紙《さしがみ》が来たんだ」
「え、あっしのことで。――」
 歌麿は、治郎兵衛の顔を見詰《みつ》めたまま、二の句がつげなかった。
「名主さんや月番の人達も、みんなもう、自身番で待ってなさる。どんな御用でお前さんが招ばれるのか、そいつはわたし達にも判《わか》らないが、お上《かみ》からのお呼び出しだとなりゃア、どうにも仕方がない。お気の毒だが、早速支度をして、わたしと一緒に行っておくんなさい」
「――――」
「外のことと違って、行きにくいのはお察しするが、どうもこればかりは素直に行ってもらわねえじゃア。……」
「へえ。――」
 素直に。――それをいま、改めていわれるまでもなかった。生れて五十一年の間、悪所通《あくしょがよ》いのしたい放題《ほうだい》はしたし、普《なみ》の道楽者の十倍も余計に女の肌《はだ》を知り尽《つく》して来はしたものの、いまだ、ただの一度も賽《さい》の目《め》を争ったことはなし、まして人様の物を、塵《ちり》ッ端《ぱ》一本でも盗んだ覚えは、露さらあるわけがなかった。さればこれまで、奉行所はおろか、自身番の土さえまったく踏んだことがなく、わずかに一度、落した大事な莨入《たばこいれ》を、田町の自身番からの差紙で、取りに来いといわれた時でさえ、病気と偽って弟子の秀麿を代りにやったくらい。好きなところは吉原で、嫌《きら》いなところはお役所だといつも口癖《くちぐせ》のようにいっていたから察しても、大概《たいがい》その心持は、わかり過ぎるほどわかっている筈だった。
 その歌麿に、ところもあろうに、町奉行からの差紙は、何んとしても解せない大きな謎《なぞ》であった。歌麿は、夢に夢見る心持《ここち》で胸を暗くしながら、家主の指図に従って、落度のないように支度を整えると、人に顔を見られるのさえ苦しい思いで、まず自身番まで出向いて行った。
 自身番には、治郎兵衛のいった通り、名主の幸右衛門と、その他月番の三人が、暗い顔を寄せ合って待っていた。幸右衛門は、歌麿の顔を見ると、慰めるように声をかけた。
「飛んだことでお気の毒だが、これア、何かお上《かみ》の間違いに違いあるまい。お前さんのようなお人が仮《かり》にもお奉行所へ呼び出されるなんてことは、ほんとの災難だ。――だが心配は無用にさっしゃい。天に眼あり。決して正直な者が罪に陥《おち》るようなことはありゃアしねえからのう」
 口の先では強いことをいっているものの、町役人達も、さすがに肚《はら》の中の不安は隠せなかったのであろう。同心渡辺金兵衛の迎いが、一刻でも遅いようにと、ひそかに祈る心は誰しも同じことであった。
 しかも五月の空は拭《ぬぐ》った如く藍色に晴れ、微風は子燕の羽をそよそよと撫《な》でていたが、歌麿の心は北国空のように、重く曇ったまま晴れなかった。

        四

 それは正に、夢想《むそう》もしない罪科であった。
 両国広小路の地本問屋《じほんどんや》加賀屋吉右衛門から頼まれて大阪の絵師石田玉山が筆に成る(絵本太閤記)と同一趣向の絵を描いた、その図の二三が災《わざわい》して、吟味中《ぎんみちゅう》入牢《じゅろう》仰付《おおせつく》といい渡された時には歌麿は余りのことに、危《あやう》く白洲《しらす》へ卒倒《そっとう》しようとしたくらいだった。
 死んだような気持で送った牢内の三日間は、娑婆《しゃば》の三年よりも永かった。――その三日の間に歌麿は、げっそり[#「げっそり」に傍点]頬のこけたのを覚えた。
「これからは怖《こわ》くて、
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