絵筆が持てなくなりやした」
出牢後、五十日間の手錠《てじょう》、家主預けときまって、再び己が画室に坐った歌麿は、これまでとは別人のように弱気になって、見舞に来た版元《はんもと》の誰彼を捕《つか》まえては、同じように牢内の恐ろしさを聞かせていたが、そのせいか「八十までは女と寝る」と豪語《ごうご》していた、きのうまでの元気はどこへやら、今は急に、十年も年を取ったかと疑われるまでに、身心共に衰《おとろ》えて、一杯の酒さえ目にすることなく、自ら進んで絵の具を解《と》こうなどという、そうした気配は、薬にしたくも見られなかった。
しとしとと雨の降る、午下《ひるさが》りだった。歌麿はいつものように机にもたれて茫然と、一坪の庭の紫陽花《あじさい》に注《そそ》ぐ、雨の脚《あし》を見詰めていた。と、あわててはいって来たおつねが、来客を知らせて来た。
「どなただか知らねえが、初めての方なら、病気だといって、お断りしねえ」
「ですがお師匠さん、お客様は割下水《わりげすい》のお旗本《はたもと》、阪上主水《さかもともんど》様からの、急なお使いだとおっしゃいますよ」
「なに、お旗本のお使いだと」
「そうでござんすよ。是非ともお目に掛って、お願いしたいことがあるとおっしゃって。……」
「どういう御用か知らねえが、お旗本のお使いならなおのこと、こんな態《ざま》じゃお目に掛れねえ。――御無礼でござんすが、ふせっておりますからと申上げて、お断りしねえ」
歌麿の、この言葉が終るか終らないうちであった。「お師匠さん、その御遠慮には及びませんよ」といいながら、庭先の枝折戸《しおりど》を開けて、つかつかとはいって来たのは、大|丸髭《まるまげ》に結《い》った二十七八の水も垂れるような美女であった。
「これアどうも、こんなところへ。……」
あわてる歌麿を、女は手早く押し止めた。
「あたしでござんす。おきたでござんす」
「え。――」
鋭く、窪《くぼ》んだ眼を上げた歌麿は、その大丸髷が、まがう方なく、嘗《かつ》ては江戸随一の美女と謳《うた》われた灘波《なにわ》屋のおきただと知ると、さすがに寂しい微笑を頬に浮べた。
「おお、おきたさんか。――ここへ何しに来なすった」
「何しにはお情《なさけ》ない。お見舞に伺ったのでござんす」
辷《すべ》るように、歌麿の傍《そば》へ坐ったおきたは、如何にもじれったそうに、衰えた歌麿の顔を見守った。――二十の頃から、珠《たま》のようだといわれたその肌は、年増盛《としまざか》りの愈※[#二の字点、1−2−22]《いよいよ》冴《さ》えて、わけてもお旗本の側室《そくしつ》となった身は、どこか昔と違う、お屋敷風の品さえ備《そな》わって、恰《あたか》も菊之丞《きくのじょう》の濡衣《ぬれぎぬ》を見るような凄艶《せいえん》さが溢《あふ》れていた。
が、歌麿の微笑は冷たかった。
「お旗本のお使いと聞いたから、滅多《めった》に粗相《そそう》があっちゃならねえと思って断らせたんだが、なぜまともに、おきただといいなさらねえんだ」
「そういったら、お師匠さんは、会ってはおくんなさいますまい。――永い間の御親切を無《む》にして仇し男と、甲州くんだりまで逃げ出した挙句、江戸へ戻れば、阪上様のお屋敷奉公。さぞ憎い奴だと思し召したでござんしょう。――ですがお師匠さん。おきたの心は、やっぱり昔のままでござんす。ふとしたことから、お前さんの今度の災難を聞きつけましたが、そうと聞いては矢も楯《たて》も堪《たま》らず、お目に掛れる身でないのを知りながら、お面《めん》を被《かぶ》ってお訪ねしました。――ほんに飛んだ御難儀、お腰などおさすりしたい心でござんす」
黙って眼を閉じていた歌麿は、そういってにじり寄ったおきたの手の温《ぬく》みを膝許《ひざもと》に感じた。
「いや、折角《せっかく》の志しだが、それには及ばねえ。今更お前さんに擦《さす》ってもらったところで、ひびのはいったおれの体は、どうにもなりようがあるめえからの」
きのうまでの歌麿だったら、百に一つも、おきたの言葉を拒《こば》むわけはなかったであろう。まして七八年前までは、若い者が呆《あき》れるまでに、命までもと打込んでいた、当の相手のおきたではないか。向うからいわれるまでもなく、直ぐさま己《おの》が膝下へ引寄せずにはおかない筈なのだが、しかし手錠《てじょう》の中に細った歌麿の手首は、じっと組まれたまま動こうともしなかった。
「お師匠さん」
「――」
「お前さんは、殿様のお世話になっているあたしが、怖《こわ》くおなりでござんすか」
「そうかも知れねえ。おれアもうお侍と聞くと眼の前が真暗になるような気がする」
「おほほほ、弱いことをおっしゃるじゃござんせんか。そのような楽な手錠なら、はめていないも同じこと、あたしが外《はず
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