というだけの話じゃねえか」
「冗談《じょうだん》いっちゃいけません。いくら何んだって師匠が陰女なんぞと。……」
「あッはッは。つまらねえ遠慮はいらねえよ。こっちが何様じゃあるめえし、陰女に会おうがどぶ女郎に会おうが、ちっとだって、驚くこたアありゃしねえ」
「それアそういやそんなもんだが、あんな女と会いなすったところで、何ひとつ、足《た》しになりゃアしやせんぜ」
「足しになろうがなるめえがいいやな。おいらはただ、お前の敵《かたき》を討ってやりさえすりゃ、それだけで本望《ほんもう》なんだ」
「あっしの敵を討ちなさる。――冗《じょ》、冗談いっちゃいけません。昔の師匠ならいざ知らず、いくら達者でも、いまどきあの女を、師匠がこなす[#「こなす」に傍点]なんてことが。――」
「勝負にゃならねえというんだの」
「お気の毒だが、まずなりやすまい」
「亀さん」
歌麿は昂然《こうぜん》として居ずまいを正した。
「へえ」
「何んでもいいから石町《こくちょう》の六《む》つを聞いたら、もう一度ここへ来てくんねえ。勝負にならねえといわれたんじゃ歌麿の名折《なおれ》だ。飽くまでその陰女に会って、お前の敵を討たにゃならねえ」
おめえの敵と、口ではいっているものの、歌麿の脳裡《のうり》からは、亀吉の影は疾《と》うに消し飛んで、十年前に、ふとしたことから馴染《なじみ》になったのを縁に、錦絵《にしきえ》にまで描いて売り出した、どぶ裏の局女郎《つぼねじょろう》茗荷屋《みょうがや》若鶴《わかづる》の、あのはち切れるような素晴らしい肉体が、まざまざと力強く浮き出て来て、何か思いがけない幸福《しあわせ》が、今にも眼の前へ現れでもするような嬉しさが、次第に胸を掩《おお》って来るのを覚えた。
「師匠、そいつア本当でげすかい」
「念には及ばねえよ」
「これアどうも、飛んだことになっちまった」
亀吉は、間伸《まのび》のした自分の顔を、二三度くるくる撫で廻すと、多少興味を感じながらも、この降って湧《わ》いたような結果に、寧《むし》ろ当惑の色をまざまざと浮べた。
が、歌麿に取っては、亀吉がどう考えているかなどは、今は少しの屈托《くったく》でもないのであろう。断えず込み上げて来る好色心が、それからそれへと渦《うず》を巻いて、まだ高々と照り渡っている日の色に、焦慮《しょうりょ》をさえ感じ始めたのであった。
「で、亀さん」
「へえ」
「女はいって、え、いくつなんだ」
「二十四だとか、五だとかいっておりやした」
「二十四五か。そいつアおつ[#「おつ」に傍点]だの。男には年がねえが、女は何んでも三十までだ。さっきお前さんのいった北国五色墨《ほっこくごしきずみ》の若鶴という女も、ちょうど二十五だったからの、うッふッふ」
歌麿の胸には、若鶴の肌が張り附きでもしているような緊張した快感が大きな波を打っていた。大方《おおかた》河岸《かし》から一筋《ひとすじ》に来たのであろう。おもてには威勢のいい鰯売《いわしうり》が、江戸中へ響《ひび》けとばかり、洗ったような声を振り立てていた。
二
今まで五重塔の九輪《くりん》に、最後の光を残していた夕陽が、いつの間にやら消え失せてしまうと、あれほど人の行《ゆ》き来《き》に賑《にぎ》わってた浅草も、たちまち木《こ》の下闇《したやみ》の底気味悪いばかりに陰を濃《こ》くして、襟を吹く秋風のみが、いたずらに冷々《ひえびえ》と肌《はだ》を撫《な》でて行った。
燃えるような眸《まなざし》で、馬道裏《うまみちうら》の、路地の角に在《あ》る柳の下に佇《た》ったのは、丈《せい》の高い歌麿と、小男の亀吉だった。亀吉は麻の葉の手拭で、頬冠《ほおかぶ》りをしていた。
「じゃア師匠《ししょう》、夢にもあっしの知合《しりあい》だなんてことは、いっちアいけやせんぜ。どこまでも笊屋《ざるや》の寅《とら》に聞いて来た、ということにしておくんなさらなきゃ。――」
「安心しねえ。お前のような弱虫の名前を出しちゃ、こっちの辱《はじ》ンならア」
「ちぇッ、面白くもねえ。もとはといやア、あっしが負けて来たばっかりに、師匠の出幕《でまく》になったんじゃござんせんか」
「いいから置いときねえ。敵《かたき》はとってやる」
「長屋は奥から三軒目ですぜ」
「合点《がってん》だ。名前はお近《ちか》。――」
「おっと師匠、莨入《たばこいれ》が落ちやす」
が、歌麿はもう二三歩、路地の溝板《どぶいた》を、力強く踏《ふ》んでいた。
亀吉が頬冠りの下から、闇を透《すか》して見ている中を、まっしぐらに奥へ消えて行って歌麿は、やがて、それとおぼしい長屋の前で足を停《と》めたが、間もなく内から雨戸をあけたのであろう。ほのかに差した明《あか》りの前に、仲蔵《まいづるや》に似た歌麿の顔が、写《うつ》し絵
前へ
次へ
全8ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
邦枝 完二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング