というだけの話じゃねえか」
「冗談《じょうだん》いっちゃいけません。いくら何んだって師匠が陰女なんぞと。……」
「あッはッは。つまらねえ遠慮はいらねえよ。こっちが何様じゃあるめえし、陰女に会おうがどぶ女郎に会おうが、ちっとだって、驚くこたアありゃしねえ」
「それアそういやそんなもんだが、あんな女と会いなすったところで、何ひとつ、足《た》しになりゃアしやせんぜ」
「足しになろうがなるめえがいいやな。おいらはただ、お前の敵《かたき》を討ってやりさえすりゃ、それだけで本望《ほんもう》なんだ」
「あっしの敵を討ちなさる。――冗《じょ》、冗談いっちゃいけません。昔の師匠ならいざ知らず、いくら達者でも、いまどきあの女を、師匠がこなす[#「こなす」に傍点]なんてことが。――」
「勝負にゃならねえというんだの」
「お気の毒だが、まずなりやすまい」
「亀さん」
 歌麿は昂然《こうぜん》として居ずまいを正した。
「へえ」
「何んでもいいから石町《こくちょう》の六《む》つを聞いたら、もう一度ここへ来てくんねえ。勝負にならねえといわれたんじゃ歌麿の名折《なおれ》だ。飽くまでその陰女に会って、お前の敵を討たにゃならねえ」
 おめえの敵と、口ではいっているものの、歌麿の脳裡《のうり》からは、亀吉の影は疾《と》うに消し飛んで、十年前に、ふとしたことから馴染《なじみ》になったのを縁に、錦絵《にしきえ》にまで描いて売り出した、どぶ裏の局女郎《つぼねじょろう》茗荷屋《みょうがや》若鶴《わかづる》の、あのはち切れるような素晴らしい肉体が、まざまざと力強く浮き出て来て、何か思いがけない幸福《しあわせ》が、今にも眼の前へ現れでもするような嬉しさが、次第に胸を掩《おお》って来るのを覚えた。
「師匠、そいつア本当でげすかい」
「念には及ばねえよ」
「これアどうも、飛んだことになっちまった」
 亀吉は、間伸《まのび》のした自分の顔を、二三度くるくる撫で廻すと、多少興味を感じながらも、この降って湧《わ》いたような結果に、寧《むし》ろ当惑の色をまざまざと浮べた。
 が、歌麿に取っては、亀吉がどう考えているかなどは、今は少しの屈托《くったく》でもないのであろう。断えず込み上げて来る好色心が、それからそれへと渦《うず》を巻いて、まだ高々と照り渡っている日の色に、焦慮《しょうりょ》をさえ感じ始めたのであった。
「で、亀さん
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