歌麿は「青楼《せいろう》十二|時《とき》」この方、版下を彫《ほ》らせては今古《こんこ》の名人とゆるしていた竹河岸の毛彫安《けぼりやす》が、森治《もりじ》から出した「蚊帳《かや》の男女《だんじょ》」を彫ったのを最後に、突然死去して間もなく、亀吉を見出したのであるが、若いに似合わず熱のある仕事振りが意にかなって、ついこの秋口、鶴喜《つるき》から開板《かいはん》した「美人島田八景」に至るまで、その後の主立《おもだ》った版下は、殆ど亀吉の鑿刀《さくとう》を俟《ま》たないものはないくらいであった。
 一昨年の筆禍《ひっか》事件以来、人気が半減したといわれているものの、それでもさすがに歌麿のもとへは各版元からの註文が殺到して、当時売れっ子の豊国《とよくに》や英山《えいざん》などを、遥かに凌駕《りょうが》する羽振りを見せていた。
 きょうもきょうとて、歌麿は起きると間もなく、朝帰りの威勢のいい一九《いっく》にはいり込まれたのを口開《くちあけ》に京伝《きょうでん》、菊塢《きくう》、それに版元の和泉屋市兵衛など、入れ代り立ち代り顔を見せられたところから、近頃また思い出して描き始めた金太郎の下絵をそのままにして、何んということもなくうまくもない酒を、つい付合って重ねてしまったが、さて飲んだとなると、急に十年も年が若くなったものか、やたらに昔の口説《くぜつ》が恋しくてたまらなくなっていた。
 そこへ――先客がひと通り立去った後へ、ひょっこり現れたのが亀吉だった。しかも亀吉から前夜|浅草《おくやま》で買った陰女《やまねこ》に、手もなく敗北したという話の末、その相手が、曾《かつ》て自分が十年ばかり前に描《か》いた「北国五色墨《ほっこくごしきずみ》」の女と、寸分の相違もないことまで聞かされては、歌麿は、若い者の意気地なさを託《かこ》つと共に、不思議に躍る己《おの》が胸に手をやらずにはいられなかった。
「亀さん」
 しばし、じっと膝のあたりを見詰ていた歌麿は、突然目を上げると、引《ひ》ッ吊《つ》るように口をゆがませて、亀吉の顔を見つめた。
「へえ。――」
「お前さん今夜ひとつ、おいらを、その陰女《やまねこ》に会《あ》わせてくんねえな」
「何んですって、師匠」
 亀吉は、この意外な言葉に、三角の眼を菱型《ひしがた》にみはった。
「そう驚くにゃ当るまい。おいらを、お前さんの買った陰女に会わせてくれ
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