》して上げましょうから、いっそさっぱりと。……」
 おきたは如何にも無造作に、歌麿の手錠に手をかけた。
「あ、いけねえ」
「そんな野暮《やぼ》な遠慮は、江戸じゃ流行《はや》りませんよ」
 ぐいと手錠を逆に引張った刹那《せつな》、歌麿は右の手首に、刺すような疼痛《とうつう》を感じたが、忽ち黒い血潮がたらたらと青畳を染めた。
「あッ」
 さすがにおきたは、驚いて手を放した。
「飛んだことをしてしまいました。――」
 手速く、帯の間から取出したふところ紙は、血のにじんだ歌麿の手首に絡《から》みついていた。
「お痛うござんすか」
「――」
「何かお薬でも。……」
 が、歌麿はうつむいたまま、一言も発しなかった。おもてを流して通る簾売《すだれうり》の声が、高く低く聞こえていた。
「師匠」
「えッ」
 その声に、ぎょっとして面《おもて》を上げた歌麿の、くぼんだ眼に映《うつ》ったのは、庭先に佇《たたず》んだ、同心渡辺金兵衛の姿であった。

        五

 この後、金兵衛の姿は、常に魔の如く、歌麿の脳裡《のうり》にこびりついて、寸時も消えることがなかった。
 その金兵衛に、ところもあろうに、初めて訪ねた陰女《やまねこ》の家で会ったのだった。跣足《はだし》のまま逃げた歌麿が、駕籠屋を呼ぶにさえ、満足に口がきけなかったのも、無理ではなかった。
「師匠」
 昨夜の様子を、一刻も速く聞きたかったのであろう。まだ六《む》つが鳴って間《ま》もないというのに彫師《ほりし》の亀吉は、にやにや笑いながら、画室の障子に手をかけた。
「師匠。――おや、こいつアいけねえ。ゆうべのお疲れでまだ夢の最中《さいちゅう》でげすね」
 ふところから、叺《かます》と鉈豆煙管《なたまめぎせる》を取出した亀吉は、もう一度にやりと笑うと、おつねの出してくれた煙草盆で二三服立続けにすぱりすぱり[#「すぱりすぱり」に傍点]とやっていたが、頭から夜具《やぐ》を被《かぶ》った歌麿が、小揺《こゆる》ぎもしないのにいささか拍子抜《ひょうしぬ》けがしたのであろう。しばし口の中で、何かぶつぶつ呟《つぶや》くと、立って、勝手許にいるおつね婆のほうへ出かけて行った。
「おつねさん。師匠はまだ、なかなか起きそうにもねえから、あっしゃ一寸並木まで、用達《ようたし》に行って来るぜ」
「亀さんにも似合わない、お師匠さんが、こんなに早くお起きな
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