さらないのは、知れきってるじゃないか」
「知っちゃアいるが、今朝《けさ》ばかりは、別だろうと思ってよ」
「そんなことがあるものかね。大きな声じゃいえないが、ゆうべは何か変ったことでもあったと見えて、夢中で駈込《かけこ》んでくると、そのままあたしに床《とこ》を取らせて寝ておしまいなんだもの。そう早く起きなさるわけはありやしないよ」
「ふん、だからよ。だからその変ったことのいきさつを、ゆっくり師匠に訊《き》きてえんだ。――まあいいや。半時ばかりで帰って来るから、よろしくいっといてくんねえ」
 亀吉の足音が、裏木戸の外へ消えてしまうと、怯《おび》えた子供のように、歌麿は夜具の襟《えり》から顔を出して、あかりを見廻した。
「びっくりさせやがる。こんなに早く来やがって。――」
 のこのこと床から這《は》い出した歌麿は、手近の袋戸棚を開《あ》けると、そこから、寛政《かんせい》六年に出版した「北国五色墨《ほっこくごしきずみ》」の一枚を抜き出した。それはゆうべ会った陰女《やまねこ》のお近と寸分も違わない、茗荷屋《みょうがや》若鶴《わかづる》の姿だった。
「うむ、ひょっとするとこれやア姉妹《きょうだい》かも知れねえ。――だが、あいつの肌に、まともに触《さわ》る間《ま》もねえうちに、箆棒《べらぼう》な、あんな野郎が、あすこへ現れるなんて。――」
 歌麿はそういいながら、手にした錦絵を枕許へ置こうとした。と、その瞬間、急に手先の痺《しび》れるのを感じた。
「こ、こいつア、いけねえ。――」
 しかし、その語尾は、もはや舌が剛張《こわば》って、思うようにいえなかった。
「お、つ、ね。――」
 裏返しにされた亀の子のように、歌麿の巨躯《きょく》は、床の上でじたばたするばかりだった。
「大変ですよ。お師匠さんが大変ですよ」
 おつねが、耳の遠い秀麿を、声限りに呼んでいるのを、歌麿は夢のように聞いていた。
 文化三年九月二十日の、鏡のような秋風が、江戸の大路《おおじ》を流れていた。



底本:「歴史小説名作館8 泰平にそむく」講談社
   1992(平成4)年7月20日第1刷発行
初出:「面白倶楽部」光文社
   1948(昭和23)年4月号
入力:大野晋
校正:noriko saito
2008年10月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(htt
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