百姓の娘さんだった。けれども、その疲労を知らぬ、太股《ふともも》に薄い縞模様のある肉体が、私を圧倒した。私は彼女によって初めて、肉体の恋を知らされたといってよい。
 ところで私は、俗物たちが妾《めかけ》をもって平然としているように、一夫多妻主義で納まっていることはできない。道徳的には妻子のもとに帰るのが正しいと思われたし、新しい私の道徳からいえば、たとえ前身がなんであろうと、前の妻と別れ、より愛している女、桂子と一緒になることが正しいように感じられた。しかし、そこに四人の子供の問題がある。十八の六倍が容易にできないような桂子に、子供たちの育てられないのは、私にも分っていた。
 そこで最後に昨年の暮、バカな私にも、桂子が異国製の菓子と煙草をかくし持っていたり、おまけに当時、ジフリーズで、ペニシリンの注射をさせてやっていた頃、彼女の浮気というより、その淫奔さに薄々、気づいていたので、また催眠剤を飲んで彼女と喧嘩の末、伊豆の妻子のもとに逃帰った。だが、催眠剤は勿論、沼津からも酒を飲みはじめ、夜中の十二時になっても、わが家に帰る気がしない。妻のぷッと膨れた冷たい顔をみるのが辛いのである。十二時頃、千二百円でハイヤーを雇い、M海岸まで帰ったが、そこでわが家を指呼の間に望みながらも帰る気になれない。家の下に、淫売宿をかねた飲み屋のあったのを幸い、そこの框《かまち》に腰かけたままで、酒を飲みはじめ、夜中の三時ごろになって、やっと、わが家に帰った。
 帰る途中、畑に顛落《てんらく》して、つき指をしたり、苦心惨憺《くしんさんたん》、やっとの思いで妻子のもとに帰ったのだが、妻は尋常の夫の放蕩《ほうとう》とのんきに思いこんでいるらしく、チクチク皮肉をいうばかりか、子供たちにも私を悪者と教えこんでいた。そこで私の気持は急転直下、妻子を棄てて、桂子と一緒になろうと思い、そのことを妻子に宣言して、再び、東京の桂子のもとに帰った。
 すると妻は子供たちを連れ、すぐ東京の実家に泣きこみにいった。そこで親戚会議《しんせきかいぎ》のようなものが始まる。その席上に、桂子は催眠剤をのんでいった。彼女は私よりも少量でもっとベロベロになる。だから私の姉たちが、子供たちの将来を思い、私のすぐ上の姉の離れの十畳間に、私の妻子を引取ろうというのも承知しないし、五十万円の離縁金で、すぐに妻を離籍しろと強硬にいいはる。
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