野狐
田中英光

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)同棲《どうせい》して、

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)作家|飢饉《ききん》で、
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 ひとのいう、(たいへんな女)と同棲《どうせい》して、一年あまり、その間に、何度、逃げようと思ったかしれない。また事実、伊豆のM海岸に疎開のままになっている妻子のもとに、度々戻ったこともある。
 しかし、それはいつも完全に逃げられなかった。(たいへんな女)が恋しく、女房の鈍感さに堪えられなかったのである。たいへんな女、桂子の過去を私はよく知らない。私は桂子と街で逢った。けれども普通の夜の天使と違った純情さと一徹さがあると信ぜられた。
 私との商取引ができた後、私は四、五人の逞《たくま》しい、異国人たちに取囲まれ、喧嘩《けんか》になった時、彼女は最後まで私の味方だった。また一緒にホテルにいった後、彼女は包まず、自分の恥ずかしい過去を語り、流涕《りゅうてい》し、しかも歓喜して私の身体を抱いた。私は生れて初めて、肉欲の喜びを知ったと思った。彼女がいっさい、包まず、自分の過去を語ったと思ったのは私の錯覚である。しかし少しでも、自分の醜悪な過去を私にみせてくれたのは、私にとって救いであった。
 いわば憐憫《れんびん》の情から結婚してしまった私の妻は処女でなかった。しかも、それは自転車に乗ったためだと嘘を吐《つ》き、自分の過去を神聖そのもののようにみせようと、いつまでも私に対して冷たかった。私も童貞で、妻と一緒になった訳ではない。けれども私は自分の過去を包みかくさず、彼女に語った。そして、彼女にもそのようにして貰いたかった。だが、妻は、(汚された処女の復讐《ふくしゅう》)を私に対して、行なったのである。私はそれに対して、放蕩《ほうとう》をもって対抗していた。
 その頃から、第二次世界大戦が激しくなってゆき、私は度々、出征した。殺人と放火の無慈悲な戦場にいると、そんな甲羅《こうら》をかぶったような妻でも、天使のように恋しく、私は帰還する度に、妻に子供を産ませた。
 戦争が済むと、私は会社を馘《くび》になり、子供は四人もあった。インフレはたちまち激しくなり、六千円ほどの退職金は三日ももたなかった。私は昔から文学志望だったけれど、その時は、資本主義社会の邪悪さを身にしみて感じていただけに、新しい正
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