しい世の中を作りたい希望をもって共産党に入っていった。
けれども一年ばかりで、私は現在の共産党に幻滅を感じた。それはボス中心の私利私欲を追求する連中だけに利用されているように思われたからである。それでも私は内部に踏みとどまって、戦うのが正しかったのだろう。だが私は一時の感情にかられて、党に脱党届を叩きつけた。そして党を憎むよりも自分を憎んだ。自分が裏切者、不義士の張本のように思われ、醜悪にみえて仕方なかったのである。
そして家に帰って、文学三昧《ぶんがくざんまい》に戻ってみたが、すでに終戦後の作家|飢饉《ききん》で、多くの流行作家が世に出た後では、私は、いわゆる、バスにのりおくれた形で、持込みの原稿もなかなか売れなかった。その私の悪戦苦闘に対しても、妻は一向、同情しなかった。ヤケになった私は将来、私に余裕ができたら、別に愛人を作ってもよいかと、妻に尋ねると、妻は冷然と、(ええ、お金さえ下さればお父さんなんか家にいなくてもいいわ)といった。
ところが、その幾らかの余裕のできるようになった頃、私は前のような事情で、桂子と知り合いになった。桂子は、前に同棲《どうせい》していた異国人のおかげで、バラックながら一軒の家を持っていた。私はそこに転がりこんだ形になったのである。
桂子も私に幾つかの嘘を吐《つ》いていた。年も五つばかり若く言い、学校も女学校を出ているなぞいったが、例えば十二の八倍が幾つになるかの暗算さえできなかった。彼女は貧農の娘、しかも不義の子として生れたのである。幼時、煙草畑の草取りがいかに苦しかったか、一晩中、叱責《しっせき》され、土間に立たされていて、蚊に責められた思い出なぞを私に語ったこともある。男や金のことでも、時々、嘘をついていた。しかし彼女の嘘は、例えば幼女の嘘のようにすぐバレ易く、それだけ、妻の頑固な嘘よりは、私にとって可憐《かれん》に思われた。妻は、肉体の喜びさえかくし勝ちなのだが、桂子はすべてが開《あ》けっぴろげのようで、私には可愛い女だった。
そこで私は、桂子と、夜昼なしの愛欲生活を送りながら、カストリ雑誌なぞにしきりに書きはじめた。そうした雑誌の編集者たちと飲みあかす晩も少なくなかった。生活の乱れに筆の荒れるのを感じるようになる。また金だけ送って疎開先におき放しになっている妻子、特に子供たちに良心的|呵責《かしゃく》も感じるように
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