わない。ただ懸命に人生を生きぬき、修行しさえすれば、よい作家になれると単純に信じている私に、この公案が、(あきらめよ、わが心、けだもの、眠りを眠れ)と話しかけるのである。
私がこの禅の話で、夢中になっている間、桂子はひとりでコップ酒をがぶがぶ飲みはじめたようだ。私のハッと気づいた時には桂子は、ベロベロに酔って、眼を据えていた。そして、先輩のYさんと口喧嘩《くちげんか》を始めている。Yさんもかなり酔われているようだ。桂子が大声で、「こんな酒、飲めるものか。ビールとチーズを持ってこい」と、店で大見えを切るように威張れば、Yさんが震え声でどもりどもり、
「君、なにを失礼なことをいうんだ。もういいから帰ってくれ給え」
「帰るとも、ロクなものを食わせもしないで大きなことをいうな」
桂子がフラフラ立上るのに、Yさんが、「この女、生意気な」と組みついていかれて、奥さんに引きとめられ、奥に寝かされに連れてゆかれてしまった。私も酔眼朦朧《すいがんもうろう》として、その様子を眺めていたが、早く、桂子を連れださねばならぬと思い、彼女をせかして玄関に出たが、桂子はもはや、ひとりで草履《ぞうり》をはけないほど酔っている。
私とても薬と併用しているから腰が切れない。ふたりでよろめきながら、崖上のYさんの家を出てゆくのに、彼女は足をすべらせ、真っ逆様に、前の溝に落ちてしまった。臭い、すえた溝の中から、はでな湯文字がみえ、暗闇には薄白くみえる、桂子の両股があらわである。才能《テクニック》と身体を張り、一身代作って、勘当された親や身内を見返そうとしている、彼女もまた一匹の野狐。野狐、溝に堕ちる、風流五百生、なぞといった感情が取りとめなく胸に湧いたが、しかし、早く彼女を助けねばならない。
私は自分も尻餅をつきながら、やっとの思いで、彼女の身体を溝から引っ張り上げたが、泥のおびんずる様みたいになっている。そして周囲にいつの間にか、多くの弥次馬。
「やア女の酔っ払いだ。みっともない」
「水をかぶせて、そこに寝かせておけば治ってしまうよ」
私は桂子がそんな風に醜悪で、みんなに侮辱されれば、されるほど、いとしくてならない。仕方がないからYさんの玄関にでも、ねかせて戴こうと頼みにゆくと、奥さんが手拭に金盥《かなだらい》をもって出てこられ、桂子の顔や身体を一通り、綺麗《きれい》にしてくれた。
桂子は幾
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