え、優しい奥様に、よく知りもしない禅の講釈などをしていた。私は彼女と別れて放浪中、偶然、古本屋で買った、「無門関」を愛誦《あいしょう》していた。その中でも、「百丈|野狐《やこ》」という公案が好きだった。それには、あのボードレールの、(あきらめよ、わが心、けだもの、眠りを眠れ)といった嘆声に共通したものがあるように思われた。いま、ここにその公案の全文を写してみよう。
 百丈和尚、凡《およ》ソ参ズルツイデ一老人アリ、常ニ衆ニシタガッテ法ヲキク。衆人シリゾケバ老人モマタシリゾク。忽《たち》マチ、一日シリゾカズ、師ツイニ問ウ。面前ニ立ツ者ハマタコレ何人ゾ。老人イウ。ソレガシハ非人ナリ、過去、迦葉仏《かしょうぶつ》ノ時ニ於《おい》テ、カツテコノ山ニ住ス。因《ちなみ》ニ学人問ウ。大修行底ノヒト、因果ニ落チルヤ、マタナキヤ。ソレガシ答エテイウ。因果ニ落チズト。五百生、野狐ノ身ニ堕ス。今コウ。和尚、一転語ヲカエテ、ネガワクハ野狐ヲ脱セシメヨト。ツイニ問ウ。大修行底ノヒト、カエッテ因果ニ落チルト、マタナキヤ。
 師イウ。因果ヲクラマサズ。老人、言下ニオイテ大悟シ、作礼シテイウ、ソレガシ已《すで》ニ野狐ノ身ヲ脱ス。山後ニ在住セン。敢エテ和尚ニ告ゲ、乞ウ、亡僧ノ事例ニヨレト。
 師、維那ヲシテ白槌シテ衆ニ告ゲシム。食後ニ亡僧ヲ送ラント。大衆、言議スラク、一衆ミナ安シ。涅槃堂《ねはんどう》、マタ人ノ病ムナシ、何故ニ、コノ如クナルト。食後タダ見ル。師ノ衆ヲ領シ、山後ノ巌下《がんか》ニ至リ、杖ヲモッテ、一死野狐ヲ挑出シ、スナワチ火葬ニヨラシム。師、晩ニ至リテ上堂シ、前ノ因縁ヲ挙《こ》ス。
 黄蘗《おうばく》スナワチ問ウ、古人、アヤマッテ一転語ヲ祇対シテ、五百生、野狐ノ身ニ堕ス。転々、アヤマラザレバ、コノナニヲ作ルベキ。師イウ、近前ニ来レ。カレノ為ニイワン。黄蘗ツイニ近前シ、師ニ一掌ヲアタウ。師、手ヲウッテ笑ッテイウ。マサニ謂エリ、胡鬚《こしゅ》赤シト。更ニ赤鬚ノ胡アリト。
 無門|曰《いわ》ク、不落因果、ナンノ為ニ野狐ニ堕《お》ツ。不昧《ふまい》因果、ナンノ為ニ野狐ヲ脱スル。モシ、者裏ニ向ッテ、一隻眼ヲ著得セバ、スナワチ、前百丈(野狐ノコト)風流五百生ヲカチ得タルヲ知リ得ン。
 頌《じゅ》ニ曰ク、不落不昧、両彩|一賽《いっさい》、不昧不落、千錯万錯。
 私はこの公案に自己流の解釈を下そうとは思
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