ねりを、見詰《みつ》めていると、もはや旅愁《りょしゅう》といった感じがこみあげて来るのでした。
 出発時の華《はな》やかな空気はそのまま、船を包んで――ぼく達のクルウにも残っていました。朝のデンマアク体操も、B甲板を廻るモオニング・ランも、午前と午後のバック台も棒引も、隅田川にいるときとは比べものにならないほど楽だったし、皆《みんな》も、向うに着くまではという気が、いくらかはあったのでしょう。東海さんや、補欠の有沢さんを中心とする惚《のろ》け話や、森さんや松山さんを囲んでの色《エロ》話も、盛《さか》んなものでした。
 合宿の頃から、ずうッと一人ぼっちだったぼくは、多勢の他テイムのなかに雑《まざ》ると、余計さびしく、出帆してから二三日、練習以外の時間は、ただ甲板を散歩したり、船室で、啄木を読んだり、船室が、相部屋の松山さん、沢村さんに占領《せんりょう》されているときは、喫煙室《きつえんしつ》で、母へ手紙を書いたりしていました。
 故国を離れてから三日目、ぼくは恥《はず》かしい白状をしなければなりません。無暗《むやみ》に淋しくなったぼくはスモオキング・ルウムの片隅《かたすみ》で、とても非常識な手紙を書こうとしていたのです。無論、書きかけただけで、実行はしませんでしたが、その前年の夏、鎌倉の海で、一寸《ちょっと》遊んだ、文化学院のお嬢さんに、ラブレタアを書いてやろうと思ったのです。返事は多分、向うに着いて貰えるだろうと思いましたが、その、円《つぶ》らな瞳《ひとみ》をした、お嬢さんには、すでに恋人《こいびと》があったかも知れないとおもうと、気恥かしくなって来て、止《や》めにしました。

     四

 やはり、あなたと初めてお逢《あ》いした晩のことは、はっきり憶《おぼ》えています。
 例の、食事中にはネクタイをきちんと結べ、フォオクをがちゃつかすな、スウプを飲むのに音を立てるな、頭髪《とうはつ》に手を触《ふ》れるな、といった食卓作法《テエブルマナア》も、まだ出発して一週間にならない、あの頃《ころ》はよく守られていました。
 そうした夕食後の一刻《ひととき》を、やはり新人《フレッシュマン》の為《ため》、仲間はずれになっている、KOのフォアァの補欠で、銀座ボオイの綽名《あだな》のある、村川と、一等船客専用のA甲板《かんぱん》を――Aデッキを練習以外には使うな、などという規則が守られていたのは、初めの二三日でした。――ぶらついていると、「オーイ、活動が一等の食堂にあるぞオ」と誰《だれ》かが叫《さけ》んで、四五人、駆《か》けて行きました。「行って見ようや」とぼくは村川を誘《さそ》い、KOの二番の柴山《しばやま》、補欠《サブ》の河堀とも一緒《いっしょ》になって、デッキを降り、食堂に入って行きますと、映画は始まっていて、代表選手の練習を集めた実写物らしく女子選手のダイビングが、空中に美しい弓なりの弧《こ》を描《えが》いているところでした。
 ぼく達、ボオトの場景が最後《ラスト》を飾《かざ》り、観《み》ていれば、撮影《さつえい》された覚えもある荒川《あらかわ》放水路、蘆《あし》の茂《しげ》みも、川面《かわも》の漣《さざなみ》も、すべて強烈《きょうれつ》な斜陽《しゃよう》の逆光線に、輝《かがや》いているなかを、エイト・オアス・シェルの影画《シルエット》が、キラキラする水を鋭《するど》く切り、凄《すさ》まじい速さで、進んでゆくのでした。影画のようなオォルでも、上げれば、水泡《すいほう》と、飛沫《しぶき》が、同時に光ります。「いいなア」と誰かが溜息《ためいき》をついていました。漕《こ》いでいれば、あんなに辛《つら》いものでも、見ていれば綺麗《きれい》に違いありません。
 映画が済んでから、またAデッキに出てみますと、太平洋は、けぶるような朧月夜《おぼろづきよ》でした。霧《きり》がすこしたれこめ、うねりもゆるやかな海面を、眺《なが》めながら、Bデッキヘの降り口にまで来たときです。甲板の反対側から、廻《まわ》ってきた、あなた達と、ぱったり一緒になってしまいました。雀《すずめ》のように喋《しゃべ》りあっているあなた達に、村川は、「どうぞお先に」とふざけて、言いました。女子ハアドルの内田さんが、先に進みでて、「おおきに」と澄《す》ましたお辞儀《じぎ》をしたので、あなた達は笑い崩《くず》れる。
 そのとき、全く偶然《ぐうぜん》で、すぐ前にいたあなたに、ぼくが「活動みていたんですか」ときいた。あなたは驚《おどろ》いたように顔をあげて、ぼくをみた、真面目《まじめ》になった、あなたの顔が、月光に、青白く輝いていた。それは、童女の貌《かお》と、成熟した女の貌との混淆《こんこう》による奇妙《きみょう》な魅力《みりょく》でした。
 みじんも化粧《けしょう》もせず、白粉《おしろい》のかわりに、健康がぷんぷん匂《にお》う清潔さで、あなたはぼくを惹《ひ》きつけた。あなたの言葉は田舎《いなか》の女学生丸出しだし、髪《かみ》はまるで、老嬢《ろうじょう》のような、ひっつめでしたが、それさえ、なにか微笑《ほほえ》ましい魅力でした。
 あなたは、薄紫《うすむらさき》の浴衣《ゆかた》に、黄色い三尺をふッさりと結んでいた。そして、「ボオトはきれいねエ」と言いながら、袖《そで》をひるがえして漕《こ》ぐ真似《まね》をした。ぼくは別れるとき、「お名前は」とか、「なにをやって居られるんですか」とか、訊《き》きました。そしたら、あなたは、「うち、いややわ」と急に、袂《たもと》で、顔をかくし、笑い声をたてて、バタバタ駆けて行ってしまった。お友達のなかでいちばん背の高いあなたが、子供のように跳《は》ねてゆくところを、ぼくは、拍子抜《ひょうしぬ》けしたように、ぽかんと眺めていたのです。その癖《くせ》、心のなかには、潮《うしお》のように、温かいなにかが、ふツふツと沸《わ》き、荒《あ》れ狂《くる》ってくるのでした。
 船室に帰ってから、ぼくは大急ぎで、選手|名簿《めいぼ》を引き出し、女子選手の処《ところ》を、探してみました。すると、あなたの顔ではありますが、全然、さっきの魅力を失った、ただの田舎女学生の、薄汚《うすぎたな》く取り澄ました、肖像《しょうぞう》が発見されました。そこに (熊本秋子、二十歳、K県出身、N体専に在学中種目ハイ・ジャムプ記録一|米《メエトル》五七)と出ているのを、何度も読みかえしました。なかでも、高知県出身とある偶然さが、嬉《うれ》しかった。ぼくも高知県――といっても、本籍《ほんせき》があるだけで、行ったことはなかったのですが、それでも、この次、お逢いしたときの、話のきっかけが出来たと、ぼくには嬉しかった。

     五

 翌朝から、ぼくは、あなたを、先輩達に言わせれば、まるで犬の様につけまわし出しました。船の頂辺のボオト・デッキから、船底のCデッキまで、ぼくは閑《ひま》さえあると、くるくる廻り歩き、あなたの姿を追って、一目遠くからでも見れば、満足だったのです。
 その晩、B甲板の船室の蔭《かげ》で、あなたが手摺《てすり》に凭《もた》れかかって、海を見ているところを、みつけました。腕《うで》をくんで背中をまるめている、あなたの緑色のスエタアのうえに、お下げにした黒髪《くろかみ》が、颯々《さつさつ》と、風になびき、折柄《おりから》の月光に、ひかっていました。勿論《もちろん》ぼくには、馴々《なれなれ》しく、傍《そば》によって、声をかける大胆《だいたん》さなどありません。只《ただ》、あなたの横にいた、柴山の肩《かた》を叩《たた》き、「なにを見てる」と尋《たず》ねました。それは、あなたに言った積りでした。柴山は、「海だよ」と答えてくれました。ぼくも船板《ふなばた》から、見下ろした。真したにはすこし風の強いため、舷側《げんそく》に砕《くだ》ける浪《なみ》が、まるで石鹸《シャボン》のように泡《あわ》だち、沸騰《ふっとう》して、飛んでいました。
 次の晩、ぼくが、二等船室から喫煙室《きつえんしつ》のほうに、階段を昇《のぼ》って行くと、上り口の右側の部屋から、溌剌《はつらつ》としたピアノの音が、流れてきます。“春が来た、春が来た、野にも来た”と弾《ひ》いているようなので、そっとその部屋を覗《のぞ》くと、あなたが、ピアノの前にちんまりと腰をかけ、その傍に、内田さんが立っていました。
 二人は、覗いているぼくに気づくと、顔を見合せ、花やかに、笑いだしました。その花やいだ笑いに、つりこまれるように、ぼくは、その部屋が男子禁制のレディスルウムであるのも忘れ、ふらふらと入り込《こ》んでしまいました。あなた達は、怪訝《けげん》な顔をして、ぼくを見ています。ぼくも入ったきり、なんとも出来ぬ、羞恥《しゅうち》にかられ、立ちすくんでしまった。
 すると、あなた達はそそくさ、部屋を出て行きました。ぼくも、その後から、急いで逃《に》げだしたのです。
 翌晩、船で、簡単な晩餐会《ばんさんかい》があって、その席上、選手全員の自己紹介が行われました。なにしろ元気一杯な連中ばかりですから、溌剌とした挨拶《あいさつ》が、食堂中に響《ひび》き渡《わた》ります。槍《やり》の丹智《タンチ》さんが女にしては、堂々たる声で、「槍の丹智で御座《ござ》います」とお辞儀《じぎ》をすると、TAをCHIと聴《き》き違《ちが》え易《やす》いものですから、男達は、どっと笑い出しました。ぼくには、大きな体の丹智さんが、呆気《あっけ》にとられ、坐《すわ》りもならず、立っているのが、その時には、ほんとうにお気の毒でした。いつもなら、無邪気《むじゃき》に笑えたでしょう。が、あなたの上に、すぐ考えて、それが如何《いか》にも、女性を穢《けが》す、許されない悪巫山戯《わるふざけ》に、思えたのです。
 ぼくの番になったら、美辞|麗句《れいく》を連ね、あなたに認められようと思っていたのに、恥《はず》かしがり屋のぼくは、口のなかで、もぐもぐ、姓《せい》と名前を言ったら、もうお終《しま》いでした。
 あなたの番になると、あなたは、怖《お》じず臆《おく》せず明快に、「高飛びの熊本秋子です」と名乗って着席しました。ぼくには、その人怖じしない態度が好きだった。
 それから何日、経《た》ったでしょう、ぼくはその間、どうしたらあなたと友達になれるかと、そればかりを考えていました。前にも言ったとおり、恥かしがりで孤独《こどく》なぼくには、なにかにつけ、目立った行為《こうい》はできなかった。
 ある夜、船員達の素人芝居《しろうとしばい》があるというので、皆《みんな》一等食堂に行き、すっかりがらんとしたあとぼくがツウリスト・ケビンの間を歩いていますと、仄明《ほのあか》るい廊下《ろうか》の端《はず》れに、月光に輝いた、実に真《ま》ッ蒼《さお》な海がみえました。と、その間から、ひょいと、あなたの顔が、覗いてひっこんだのです。ぼくは我を忘れ駆けて行ってみました。すると、手摺に頬杖《ほおづえ》ついた、あなたが、一人で月を眺《なが》めていました。月は、横浜を発《た》ってから大きくなるばかりで、その夜はちょうど十六夜《いざよい》あたりでしたろうか。太平洋上の月の壮大《そうだい》さは、玉兎《ぎょくと》、銀波に映じ、といった古風な形容がぴったりする程《ほど》です。満々たる月、満々たる水といいましょうか。澄《す》みきった天心に、皎々《こうこう》たる銀盤《ぎんばん》が一つ、ぽかッと浮《うか》び、水波渺茫《すいはびょうぼう》と霞《かす》んでいる辺《あた》りから、すぐ眼の前までの一帯の海が、限りない縮緬皺《ちりめんじわ》をよせ、洋上一面に、金光が、ちろッちろッと走っているさまは、誠《まこと》に、もの凄《すさ》まじいばかりの景色でした。
 ぼくは一瞬《いっしゅん》、度胆《どぎも》を抜《ぬ》かれましたが、こんな景色とて、これが、あの背広を失った晩に見たらどんなにつまらなく見えたでしょうか。いわばあなたとの最初の邂逅《かいこう》が、こんなにも、海を、月を、夜を、香《かぐ》わしくさせたとしか思われません。ぼく
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