は胸を膨《ふく》らませ、あなたを見つめました。
その夜のあなたは、また、薄紫《うすむらさき》の浴衣《ゆかた》に、黄色い三尺帯を締《し》め、髪を左右に編んでお下げにしていました。化粧《けしょう》をしていない、小麦色の肌《はだ》が、ぼくにしっとりとした、落着きを与《あた》えてくれます。顔つき合せては、恥かしく、というより、何も彼にもが、しろがね色に光り輝く、この雰囲気《ふんいき》のなかでは、喋《しゃべ》るよりも黙《だま》って、あなたと、海をみているほうが、愉《たの》しかった。
随分《ずいぶん》、長い間、沈黙《ちんもく》が続いた後で、ぽつんとぼくが、「熊本さんも、高知ですか」と訊《たず》ねました。あなたは頷《うなず》いてから、「坂本さんは、高知の、どこでしたの」と言います。「いや、高知は両親の生れた所ですけれど、まだ知りません。ずっと東京です」「そう。高知は良い国よ。水が綺麗《きれい》だし、人が親切で」「ええ、聴《き》いています。母がよく、話してくれます。ほら、よさこい節ってあるんでしょう」「ええ、こんなんですわ」とあなたは、悪戯《いたずら》ッ児《こ》のように、くるくる動く黒眼勝《くろめがち》の、睫《まつげ》の長い瞳《ひとみ》を、輝かせ、靨《えくぼ》をよせて頬笑《ほほえ》むと、袂《たもと》を翻《ひるが》えし、かるく手拍子《てびょうし》を打って『土佐は良いとこ、南を受けて、薩摩颪《さつまおろし》がそよそよと』と小声で歌いながら、ゆっくり、踊《おど》りだしました。
ぼくが可笑《おか》しがって、吹出《ふきだ》すと、あなたも声を立てて、笑いながら、『土佐の高知の、播磨屋《はりまや》橋で、坊《ぼう》さん、簪《かんざし》、買うをみた』と裾《すそ》をひるがえし、活溌《かっぱつ》に、踊りだしました。文句の面白《おもしろ》さもあって、踊るひと、観《み》るひと共に、大笑い、天地も、為《ため》に笑った、と言いたいのですが、これは白光|浄土《じょうど》とも呼びたいくらい、荘厳《そうごん》な月夜でした。
しかし、その月光の園《その》の一刻《ひととき》は、長かったようで、直《す》ぐ終ってしまいました。それは、あなたの友達の内田さんが、船室の蔭から、ひょッこり姿を、現わしたからです。内田さんも、あなたの様子にニコニコ笑って来るし、ぼく達も、笑って迎《むか》えましたが、ぼくにとっては月の光りも、一時に、色褪《いろあ》せた気持でした。
六
それから、三人|揃《そろ》って、芝居《しばい》を見に行きました。なにをやっていたか、もう忘れています。多分、碌々《ろくろく》、見ていなかったのでしょう。ぼくは別れて、後ろの席から、あなたの、お下げ髪《がみ》と、内田さんの赤いベレエ帽《ぼう》が、時々、動くのを見ていたことだけ憶《おぼ》えています。
それからの日々が、いかに幸福であったことか。未《ま》だ、誰《だれ》にも気づかれず、ぼくはあなたへの愛情を育てていけた。ぼくはその頃《ころ》あなたと顔を合せるだけで、もう満ち足りた気持になってしまうのでした。朝の楽しい駆足《かけあし》、Aデッキを廻《まわ》りながら、あなた達が一層下のBデッキで、デンマアク体操をしているのが、みえる処《ところ》までくると、ぼくはすぐあなたを見付けます。
なかでも、長身なあなたが、若い鹿《しか》のように、嫋《しな》やかな、ひき緊《しま》った肉体を、リズミカルにゆさぶっているのが、次の一廻り中、眼にちらついています。今度、Bデッキの上を駆ける頃になると、あなたは、海風に髪を靡《なび》かせながら、いっぱいに腕を開き、張りきった胸をそらしている。その真剣《しんけん》な顔付が、また、次の一廻り中、眼の前にある。その次、Bデッキの上まで来るとあなたは腕をあげ脚《あし》を思い切り蹴上《けあ》げている、というように、以前は、嫌《きら》いだった駆足も、駆けている間中、あなたが見えるといった愉《たの》しさに変りました。
それからすっかり腹を空《す》かした朝の食事、オオトミイルに牛乳をなみなみと注いで、あなたを見ると、林檎《りんご》を丸噛《まるかじ》りに頬張《ほおば》っているところ、なにかふっと笑っては、自分に照れ、俯《うつむ》いてしまいます。(よく、食うなア)と、あなたに言った積りですが、案外、自分のことでしょう。
朝飯を食うと午前中の練習で、八時半から十一時頃まで、ボオト・デッキと体育室《ギムナジウムルウム》の前に置いてあるバック台を、まず、三百本以上は、定《き》まって引きました。大体、三番の梶《かじ》さんと、四番のぼくは並《なら》んで引くのが原則ですが、下手糞《へたくそ》な為《ため》、時々、五番の松山さんや整調の森さんとも引きます。ぼくは、胴《どう》が長くて、上体が重く、いつも起上り《レカバリー》[#「起上り」にルビ]が、おくれて、叱《しか》られるのですが、あの数日は、すばらしい好調でした。
いつもは隣《となり》のバック台に、合わそうとすればする程《ほど》合わないのが、その頃は合わそうとしないでも、いつの間にかチャッチャッとリズムが出てくるのです。身も心も浮々《うきうき》していて、普段《ふだん》は音痴《おんち》のぼくでも、ひどく音楽的になれたのでしょう。そのリズムに乗ってしまえばしめたもので、カタンと足で蹴り身体を倒《たお》した瞬間《しゅんかん》、もう上半身は起き上がり、スウッと身体は前に出てゆきます。手首をブラッと突《つ》きだし、全身が倒れた反動で、ひとりでに進むのをゆるくセエブしながら、みはるかす眼下ひろびろと、日に輝く太平洋が青畳《あおだたみ》のように凪《な》いでいるのを見るのは、まことに気持の好《よ》いものです。
そんな時、監督《かんとく》に廻って来た総監督の西博士が、コオチャアの黒井さんに、「みんな、坂本君位、身体があれば大したものだなア」と褒《ほ》めて下さるのを聞くと、いつもクルウの先輩《せんぱい》連からは、「大きな身体を、持てあましていやがって――」など言われているだけに、思わず、ハッとあがってしまい、又《また》、普段の地金が出るのではないかと固くなるのでした。
ある日、バック台を引いたあとで、腕組みをしながら、あとの人達のやるのを見ていて、ひょいと眼をあげると、あなたの汗《あせ》ばんだ顔が、体育室の円窓越しに、此方《こちら》を眺《なが》めていました。ぼくは直《す》ぐ、恥《はず》かしくなって、視線をそらせようとすると、あなたも、寂《さび》しいくらい白い歯をみせ、笑うと、窓|硝子《ガラス》をトントン拳《こぶし》で叩《たた》く真似《まね》をしてから、身をひるがえし逃げてゆきました。
それからと云《い》うものは、ぼくは、バック台をひきながらも、背後の体育室のなかで、かすかに、モーターの廻り出す音でも、聞えると、あなたが来ているかなと、胸が昂《たか》まるのでした。
いつでしたか、いちばん後まで残り、バック台を蔵《しま》ってからも、皆、降りて行ってしまうまで海を眺めるふりをし、誰もいなくなってから、体育室に入ってみました。
すると、あなたと、内田さんが、木馬に乗って、ギッコンギッコンと凄《すさ》まじい速さで、上がったり下がったりしています。おまけに、あなた達はパンツ一枚なのですから、太股《ふともも》の紅潮した筋肉が張りきって、プリプリ律動するのがみえ、ぼくはすっかり駄目《だめ》になり、ほうほうの態《てい》で、退却《たいきゃく》したことがあります。
午後は、ぼく達の棒引が終ってから、あなたがたの練習をみるのが、また楽しみでした。
殊《こと》に、あなたのアマゾンヌの様な、トレエニング・パンツの姿が、A甲板の端から此方まで、風をきって疾走《しっそう》してくる。それも、ひどく真剣な顔が汗みどろになっているのが、一種異様な美しさでした。
(視《み》よ、わが愛する者の姿みゆ。視よ、山をとび、丘《おか》を躍《おど》りこえ来る。わが愛する者は※[#「※」は「けものへん」の右に「章」、31−11]《しか》のごとく、また小鹿のごとし)
紫紺《しこん》のセエタアの胸高いあたりに、紅《あか》く、Nippon と縫《ぬ》いとりし、踝《くるぶし》まで同じ色のパンツをはいて、足音をきこえぬくらいの速さで、ゴオルに躍りこむ。と、すこし離《はな》れている、ぼくにさえ聞えるほどの激《はげ》しい動悸《どうき》、粒々《つぶつぶ》の汗が、小麦色に陽焼《ひや》けした、豊かな頬《ほお》を滴《したた》り、黒いリボンで結んだ、髪の乱れが、頸《くび》すじに、汗に濡《ぬ》れ、纏《まつわ》りついているのを、無造作にかきあげる。
七番の坂本さんが、ぼくの肩《かた》を叩いて、「すごいなア」という。あなたの真剣さに、感動したのでしょう。「ええ」と領《うなず》きながら、ぼくはふいと目頭が熱くなったのに、自分で驚《おどろ》き、汗を拭《ぬぐ》うふりをすると、慌《あわ》てて船室に駆け降りました。
舷《ふなばた》では、槍《やり》の丹智さんが、大洋にむかって、紐《ひも》をつけた、槍を投げています。ブンと風をきり、五十|米《メエトル》も海にむかって、突き刺さって行く槍の穂先《ほさ》きが、波に墜《お》ちるとき、キラキラッと陽に眩《くる》めくのが、素晴《すばら》しい。と、上の甲板からは、ダイビングの女子選手が、胴のまわりを、吊鐶《つりわ》で押《おさ》えたまま、空中に、さッと飛びこむ。アクロバットなどより真面目《まじめ》な美しさです。
と、また、男達のほうでも、ボクサアは、喰《く》いつきそうな形相で、サンドバッグを叩いていますし、レスラアは、筋肉の塊《かたま》りにみえる、すさまじさで、ブリッジの練習。体操の選手は選手で、贅肉《ぜいにく》のない浮彫《うきぼり》のような体を、平行棒に、海老《えび》上がりさせては、くるくる廻っています。おおかた上のプールでは、水泳選手の河童《かっぱ》連が、水沫《みずしぶき》をたてて、浮いたり沈《しず》んだり、ウォタアポロの、球を奪《うば》いあっているのでしょう。
それでありながら、古代ギリシャ、ロオマの巨匠《きょしょう》達が発見した、人間の文字通り具体的な、観念に憑《つ》かれぬという意味での美しさが、百花|撩乱《りょうらん》と咲き乱れておりました。
しかしながら、その中に育った、ぼく達の愛情は、肉体の露《あら》わにみえる処に、あればあるほど肉体的でない、まるで童話《メルヘン》の恋《こい》物語めいた、静かさでありました。あなたと語り合うことは、恐《おそ》ろしく、眼を見交《みかわ》すことが、楽しく、黙《もく》して身近くあるよりも、ただ訳もなく一緒《いっしょ》に遊んでいるほうが、嬉《うれ》しかったのです。
夜の食事のときなど、メニュウが、手紙になったり、先の方に絵葉書がついていたりします。ぼくはその上に書く、あなたへの、愛の手紙など空想して、コオルドビイフでも噛《か》んでいるのです。メニュウには、殆《ほとん》ど錦絵《にしきえ》が描《えが》かれています。歌麿《うたまろ》なぞいやですが、広重《ひろしげ》の富士と海の色はすばらしい。その藍《あい》のなかに、とけこむ、ぼくの文章も青いまでに美しい。ところで、あなたはパセリなど銜《くわ》えながら、時々こちらに、ちらっと笑いかけてくれるのでした。
夜は、概《がい》して平安一路な航海、月や星の美しい甲板で、浴衣《ゆかた》がけや、スポオツドレスのあなたが、近くに仄白《ほのじろ》く浮いてみえるのを、意識しながら、照り輝く大海原《おおうなばら》を、眺めているのは、また幸福なものでした。
なかでも、わけて愉しかったのは、昼食から三時までの練習休みの時間、大抵《たいてい》のひとが暑さにかまけて、昼寝《ひるね》でもしているか、涼《すず》しい船室を選んで麻雀《マアジャン》でも闘《たたか》わしているのに、ぼくは炎熱《えんねつ》で溶《と》けるような甲板の上ででも、あなたや内田さんと、デッキ・ゴルフや、シャブルボオドをして遊んでいれば、暑さなど、想《おも》ってもみない、楽しさで充実
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