ぼくは二階の廊下《ろうか》を歩き、屋上の露台《ろだい》のほうへ登って行きました。眼の下には、鋭《するど》い舳《バウ》をした滑席艇《スライデングシェル》がぎっしり横木につまっています。そのラッカア塗《ぬ》りの船腹が、仄暗《ほのぐら》い電燈に、丸味をおび、つやつやしく光っているのも、妙《みょう》に心ぼそい感じで、ベランダに出ました。遥か、浅草《あさくさ》の装飾燈《そうしょくとう》が赤く輝《かがや》いています。時折、言問橋《ことといばし》を自動車のヘッドライトが明滅《めいめつ》して、行き過ぎます。すでに一|艘《そう》の船もいない隅田川《すみだがわ》がくろく、膨《ふく》らんで流れてゆく。チャップチャップ、船台を洗う波の音がきこえる、ぼくは小説《ロマンス》めいた気持でしょう、死にたくなりました。死んだ方が楽だと、感じたからです。
大体が、文学少年であったぼくが、ただ、身体の大きいために選ばれて、ボオト生活、約一箇年、「昨日も、今日も、ただ水の上に、陽が暮《く》れて行った」と日記に書く、気の弱いぼくが、それも一人だけの、新人《フレッシュマン》として、逞《たくま》しい先輩達に伍《ご》し、鍛《きた》えられていたのですから、ぼくにとっては肉体的の苦痛も、ですが、それよりも、精神的なへばりのほうが我慢できなかった。
ぼくは、ボオトのことばかりでなく、日常生活でも、することが一々|無態《ぶざま》だというので、先輩達にずいぶん叱られた。叱られた上に馬鹿にされていました。ぼくみたいに、弱気な人間には、ひとから侮辱《ぶじょく》されて抵抗《ていこう》の手段がないと諦《あきら》め切る時ほど、悲しい事はありません。なにをいっても、大坂《ダイハン》は怒《おこ》らない、と先輩達は感心していましたが、怒ったら、ボオトを止《や》めるよりほかに手段がない。また、そうしてボオトを止めるのは、ぼくのひそかに傲慢《ごうまん》な痩意地《やせいじ》にとって、自殺にもひとしかった。
それで、背広を失くした苦痛に、加えて、こうした先輩達の罵声が、どんなに辛辣《しんらつ》であろうかと、思っただけでもたまりません。蔭口《かげぐち》や皮肉をとばす、整調森さんの意地悪さ、面とむかって「ぶちまわすぞ」と威《おど》かす五番松山さんの凄《すさ》まじさ、そうした予感が、堪《た》えがたいまでに、ちらつきます。またそうした先輩達の笞《むち》から、いつも庇《かば》ってくれるコオチャアやO・B達に対しても、ぼくの過失はなお済まない気がします。
悶《もだ》え悶え、ぼくは手摺《てすり》によりかかりました。其処《そこ》は三階、下はコンクリイトの土間です。飛び降りれば、それでお終《しま》い。思い切って、ぼくは、頭をまえに突き出しました。ちょうど手摺が腰《こし》の辺に、あたります。離《はな》れかかった足指には、力が一杯《いっぱい》、入っています。「神様!」ぼくは泣いていたかもしれません。しかし、その瞬間《しゅんかん》、ぼくが唾《つば》をすると、それは落ちてから水溜《みずたま》りでもあったのでしょう。ボチャンという、微《かす》かな音がしました。すると、ぼくには、不意と、なにか死ぬのが莫迦々々《ばかばか》しくなり、殊《こと》に、死ぬまでの痛さが身に沁《し》みておもわれ、いそいで、足をバタつかせ、圧迫されていた腸の辺《あた》りを、まえに戻《もど》しました。いま考えると、可笑しいのですが、そのときは満天の星、銀と輝く、美しい夜空のもとで、ほんとに困って死にたかった。
そんな簡単に、自殺をしようと考えるのには、多分、耽読《たんどく》した小説の悪影響《あくえいきょう》もあったのでしょう。ぼくは冷たい風が髪《かみ》をなぶるのに、やッと気がつきかけたが、もうなんとしても、背広は出てこないという点に、考えがぶつかると、やはり死の容易さに、惹《ひ》かれてゆきます。ぼくは、なにか、ほかの方法で死にたいと、思いました。身投げは泳げるし、鉄道自殺は汚い、ああ、もう、と目茶苦茶な気持に駆りたてられ、合宿横にある交番に、さしかかると、「オイ」と巡査《じゅんさ》に呼び咎《とが》められました。それ迄《まで》は、これから、向島の待合に行って、芸者と遊んだ末、無理心中でもしようかという虫の良い了見《りょうけん》も起しかけていたのですが、ハッと冷水をかけられた気が致《いた》しました。
こんな夜|遅《おそ》く、学生がへんな恰好《かっこう》でうろついていたからでしょう。巡査は、ぼくの傍《そば》にきて、じっとみつめてから、なんだという顔になり、「ああ君はWの人じゃないか」といい、大学の艇庫ばかり並んでいる処《ところ》ですから、ボオト選手の日頃の行状を知っていて、「いいねエ、君等は、飲みすぎですか」と笑いかけます。ぼくの蒼《あお》ざめた顔を、酒の故《ゆえ》とでも思ったのでしょう。照れ臭《くさ》くなったぼくは、折から来かかった円タクを呼びとめ、また、渋谷へと命じました。
家に着いたぼくは、なにもいわず、ただ「ねかしてくれ」と頼んだそうですが、あまり顔色と眼付が変なのに、心配した母は、すぐ、叱りもせずに、床《とこ》をしいてくれました。翌朝、眼の覚めたときは、もう十時過ぎでしたろう。枕《まくら》もとの障子《しょうじ》一面に、赫々《あかあか》と陽がさしています。「ああ、気持よい」と手足をのばした途端《とたん》、襖《ふすま》ごしに、舵手《だしゅ》の清さんと、母の声がします。ぼくの胸は、直ぐ、一杯に塞《ふさ》がりました。
もう寝たふりをして置こうと、夜着をかぶり、聴《き》きたくもない話なので、耳を塞いでいると、そのうち、また眠《ねむ》ってしまったようです。あの頃は、よく眠りました。練習休みの日なぞ、家に帰って、食べるだけ食べると、あとは、丸一日、眠ったものです。それ程、心身共に、疲れ果てていたのでしょう。ところが、やがて、「やア、坊主《ぼうず》、ねてるな」という兄の親しい笑い声と、同時に、夜着をひッぱがれました。二十歳にもなっているぼくを、坊主なぞ呼ぶのは、可笑しいのですが、早くから、父を失い、いちばん末ッ子であったぼくは、家族中で、いつでも猫《ねこ》ッ可愛《かわい》がりに愛されていて、身体こそ、六尺、十九貫もありましたが、ベビイ・フェイスの、未《ま》だ、ほんとに子供でした。
ぼくの蒲団をまくった兄は、母から事情をきいたとみえ、叱言《こごと》一ついわず、「馬鹿、それ位のことでくよくよする奴《やつ》があるかい。さア、一緒に、洋服を作りに行ってやるから、起きろ、起きろ」とせかしたてるのです。ぼくは途端に、「ほんと」と飛び起きました。兄は会社関係から、日本毛織の販売所に、親しいひとがいて、特に、二日で間に合うように頼んでやる、というので、ぼくは大慌《おおあわ》てに、支度《したく》を始めました。
あとになって、判《わか》ったのですが、この朝、老いた母は、六時頃に起きて、合宿まで行ってくれ、また合宿では、清さんがひとり、明方に帰って来ていて、母から話をきくと、一緒に、家まで様子を見にきてくれたとのことでした。清さんは、ぼくを落着くまで、静かにほって置いたほうが好いだろう。背広のことは、コオチャアや監督に、よく話をしておきます。災難だから、仕方がない。明朝、出発のときは、ブレザァコオトをきて颯爽《さっそう》と出て来るように言って下さい。なアに、学生服で、あちらに行ったって、差支《さしつか》えないでしょう、と言い置いてくれた由《よし》。兄は、その頃、すでに、共産党のシンパサイザァだったらしいのですから、ぼくや母の杞憂《きゆう》は、てんで茶化していたようでしたが、さすがに、一人の弟の晴衣《はれぎ》とて心配してくれたとみえます。母といい、兄といい肉親の愛情のまえでは、ひとことの文句も言えません。
服は仮縫《かりぬ》いなしに、ユニホォムと同色同型のものを、出帆《しゅっぱん》の時刻までに、間に合してくれることになりましたが、やはり出来てきたのは少し違うので、ぼくはこの為、旅行中、背広に関しては、いつも顔を赤らめねばなりませんでした。
三
出発の朝、ぼくは向島《むこうじま》の古本屋で、啄木《たくぼく》歌集『悲しき玩具《がんぐ》』を買い、その扉紙《とびらがみ》に、『はろばろと海を渡《わた》りて、亜米利加《アメリカ》へ、ゆく朝。墨田《すみだ》の辺《あた》りにて求む』と書きました。
それから、合宿で、恒例《こうれい》のテキにカツを食い、一杯《いっぱい》の冷酒に征途《せいと》をことほいだ後、晴れのブレザァコオトも嬉《うれ》しく、ほてるような気持で、旅立ったのです。
あとは、御承知《ごしょうち》のようなコオスで、大洋丸まで辿《たど》りつきました。文字通りの熱狂《ねっきょう》的な歓送のなか、名も知られぬぼくなどに迄《まで》、サインを頼《たの》みにくるお嬢《じょう》さん、チョコレェトや花束《はなたば》などをくれる女学生達。旗と、人と、体臭《たいしゅう》と、汗《あせ》に、揉《もま》れ揉れているうち、ふと、ぼくは狂的な笑いの発作《ほっさ》を、我慢《がまん》している自分に気づきました。
勿論《もちろん》、こんなに盛大《せいだい》に見送って頂くことに感謝はしていたのです。ことに、京浜間に多い工場という工場の、窓から、柵《さく》から、或《ある》いは屋根にまで登って、日の丸の旗を振《ふ》ってくれていた職工さんや女工さんの、目白押《めじろお》しの純真な姿を、汽車の窓からみたときには、思わず涙《なみだ》がでそうになりました。
しかし、例の狂的な笑いの発作が、船に乗って、多勢の見送り人達に、身動きもならないほど囲まれると、また、我慢できぬほど猛烈《もうれつ》に、起ってきて、ぼくは教わったばかりの船室《ケビン》にもぐりこみ、思う存分、笑ってから、再びデッキに出たのです。
昔《むかし》、教えて頂いた中学、学院の諸先生、友人、後輩《こうはい》連も来ていてくれました。銅鑼《どら》が鳴ってから一件の背広を届けに、兄が、母の表現を借りると、スルスルと猿《ましら》のように、人波をかきわけ登ってきてくれました。これは帰朝してから、聞いたことですが、故郷|鎌倉《かまくら》での幼馴染《おさななじみ》の少年少女も来ていてくれたそうです。なかでも、波止場《はとば》の人混《ひとご》みのなかで、押し潰《つぶ》されそうになりながら、手巾《ハンカチ》をふっている老母の姿をみたときは目頭《めがしら》が熱くなりました。周囲に、家の下宿人の親切な人が、二人来ていてくれたので安心しながら、ぼくは、兄が買ってくれたテエプを抛《ほう》りましたが、なかなか母にとどきません。
女学生の一群にとび込《こ》んだり、学校の友人達の手にはいったりしても、母にはとどかないのです。その内、漸《ようや》く、一つが、母の近くの、サラリイマン風の人に取られたのを、下宿人のHさんが話して、母に渡してくれました。少しヒステリイ気味のある母は、テエプを握《にぎ》り、しゃくり上げるように泣いていました。あまり泣くのをみている内、なにか、ホッとする気持になり、左右を見廻《みまわ》すと、大抵《たいてい》の選手達が、誰《だれ》でも一人は、若い女のひとに来て貰《もら》っている、花やかさに見えました。
ぼく達のクルウでも、豪傑《ごうけつ》風な五番の松山さん迄が、見知り越しのシャ・ノアルの女給とテエプを交《かわ》しています。殊《こと》に美男《ハンサム》な、六番の東海さんなんかは、テエプというテエプが綺麗《きれい》な女に握られていました。肉親と男友達の情愛に、見送られているぼくは幸福には違《ちが》いありません。が、母には勿体《もったい》ないが、娘《むすめ》さんがひとり交《まじ》っていて、欲《ほ》しかった。
その淋《さび》しい気持は出帆《しゅっぱん》してからも続きました。見送りの人達の影《かげ》も波止場も霞《かす》み、港も燈台も隔《へだ》たって、歓送船も帰ったあと、花束や、テエプの散らかった甲板《かんぱん》にひとり、島と、鴎《かもめ》と、波のう
前へ
次へ
全19ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 英光 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング