た一遍の出来事だったが、父はぼくを連れ、日本橋の三越にいったものだ。普通でさえ腸が弱く、それだけ食いしん坊のぼくが、甘え放題に暴飲暴食させて貰ったから堪らない。ぼくは漱石みたいに髭を生した怖い顔の父に肩車で乗っていて、したたか父に黄金の臭い雨を浴せかけた。父は怒らず、そんなぼくを便所に連れてゆき、お尻をきれいにしてくれたが、ぼくはその時、父の瞳が潤んでいたのを見逃がさず、流石《さすが》になんとも遣切れぬ気持だった。
その他にも生々しい動物的な愛情を浴せられた思い出のある父だったが、そんな父だけに彼の死、父のぼくに対する「さようなら」にぼくは背中を向け、つとめて答えまいとしたものだ。父が病院で死に、翌日、霊柩車で遺骸が帰ってきた時、ぼくは父の死顔をみるのが恐ろしく、兄や姉の制止もきかず、ひとりで父の建てた茶室や東家の処々にある裏山に逃げ上っていた。山の頂きに父の回向院から貰ってきた、安政元年歿、釈清妙童女とされた七歳の幼女の無縁仏の石地蔵があり、毎夜かすかに泣き声が聞えるとのわが家の伝説の纒わっている風雨にさらされた割に眼鼻立ちのハッキリした地蔵が立っていたが、ぼくはその頭を撫で、泣こ
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