うと努力し少しも泣けなかった。悲哀よりも恐怖が強かったのだ。
 中学の卒業直前、ぼくは井上という友人に突然「さようなら」された。井上は、後家になった母が、藤沢の町に小さい雑貨屋を営んでいたひとり息子で、内気な平凡な性質。五年になる迄は学業もスポオツもこれといって頭角をぬくものがなく、すべて中等の出来だったのが、五年に進級して間もなく、数学に抜群の成績を示し、先生やぼくたちを驚嘆させた。ぼくの中学はスパルタ教育で天下に名高く、毎週土曜の午後、全校をあげ数マイルのマラソン競走をさせられる行事があり、そうした多人数との競走や、息の苦しい数マイルのマラソンは思っただけでも先に参ってしまうぼくは、大抵、落伍者や見学者の常連のひとりで、その時も、校内に立ち、ぼんやりみんなの走り帰るのを待っていると、いつもの優勝者、剣道二段で陸上競技部の主将をしている伊沢の代りに、小身痩躯の井上が、予想を裏切り、学校の記録を破るスピィディな余裕|綽々《しゃくしゃく》の走り方で先頭に立ち、帰ってきた。白いランニングの胸を張り、軽快に白足袋《しろたび》を走らせ、熱いものでも吹くような工夫された規則的な息使い。
 ぼくは
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