るのを感じながらも、ひとりでまた博文館の長篇講談に読み耽っていた。弱虫のぼくは醜く、恐ろしい死者に対決する勇気がなく、講談本の英雄豪傑の世界に逃げこむことで、震災という現実の恐怖を忘れたかったのだ。それは現在「宮本武蔵」を愛読し、敗戦の苦痛やインフレの恐怖なぞ忘れようとしているある種の日本民衆の心理に共通したものがあるのかも知れぬ。
 だが未だに大地の揺れる最中に、「岩見重太郎」の千人斬りなぞ読んでいた少年のぼくは、その時、現実とロマンスの世界のあまりの開きに、というより生理的に一大ショックを受けた直後だったからだろうか、眩暈《めまい》をおこし、続いて酸っぱい胃液を口や鼻から一杯に嘔いた。二、三日して、父が故郷の土佐から孝行する積りで連れてきたばかりの、中風の老祖父が、震災の衝撃の為か自然に死んだし、彼の看護人として、故郷の村から連れてこられた十五歳のお栄ちゃんという娘まで、震災後流行したチフスに感染し、苦しみもがいて死んでいった。ぼくは一度、震災の前に、この垂死の老祖父を笑わせる積りで、手捕りにしたヤンマ蜻蛉《とんぼ》を、彼のいかつい土色の鼻の頭にとまらせた処、全身不随の老農夫は冷た
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