旧朋輩の女給から、(そのひとが子供と帰っても、夫の画家は依然として前の女流画家と親密にしていて、家庭は地獄みたいだったこと。その為、脊椎カリエスの男の子は帰宅して一月ほどした或る朝、縁側から庭石に落ちて死んだこと。そうしたショックからそのひとも、奔馬性肺結核とかで十日足らずの入院中に死んだ)ときかされ、呆然としてもう一度そのひとに心の中で、「さようなら」をいった。そのひとは最後に、「御免なさい」とぼくに謝まる言葉を習慣として無意識に残したが、本当に謝まる必要があったのは、男性としてのエゴチズム、単純な虚栄なぞから、そのひとが好きだった癖に自分の腕に止めようとしなかったぼくのほうだと実感したのである。
当時のぼくは未だにコミニズムの理想を信じながらも、文学的にはドストエフスキイ、シュストフが流行し、社会的に軍部独裁、戦争激化の時代相に、自分の生の行動哲学として、ヒュウマニズムと日本の封建倫理や浅薄なニヒリズムがゴタ混ぜに身についている奇怪さだった。ぼくは戦死する前に女性の愛情を知りたく、恋愛、結婚にアセる気持でいながら、一方では平気で戦争未亡人を残そうとする自分の我儘《わがまま》な気持
前へ
次へ
全47ページ中31ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 英光 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング