そのひとと子供を前の夫のもとに返してしまった。
 そのひとに喫茶店の一隅で、「さようなら」をいうのにぼくはたいへんな勇気を必要とした。ぼくは最後まで云うまいと思っていた「実はあなたさえ好ければ、お子さんがあっても結婚したかった」という内心の秘密をうろたえて告白し、そのひとに手放しで泣かれ、「なぜ、それをもっと早く云ってくれなかったの」と身悶えされ、ぼくは尚更、「さようなら」が云い難くなった。而し結局、自分を犠牲にすればそのひとたちの家族が幸福になると確信できた、二十四歳のぼくの単純な虚栄、或いは偽善的な人間信頼から、ぼくはそのひとに近くの駅頭で、「さようなら」をいった。その人は別離の哀しさに興奮し、汽車の切符をとんでもない処にしまって忘れたり、トランクの蓋を何度も開けたりしめたりして、中の品物をこぼしたりした揚句、汽車がついたので泣き顔で何度もぼくのほうを振返りながら、子供の手をひき、プラットフォムを走っていった。その人が子猫の憂い顔で最後にぼくに云った言葉は、やはり、「では御免なさいね。さようなら」なのだ。
 それから三月も経たぬ中に、ぼくはそのひとのいた酒場に飲みにゆき、そのひとの
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