何でも、ドイツかイタリーの音楽に「鍛冶屋」というのがあって、トントンと鉄砧《かなしき》を叩く、それからヒントを得たと言っていた。そういうふうにして、安藤君の作品が相当に集まって行った。
ところが、あるとき突然、先生は宝塚の方針に対して気にいらないことがあったと見えて、楽譜集を持って、どっかへ隠れてしまった。私は内心困ったなと思ったが、おもては平然として、
『安藤が隠れたって、オレはちっとも困らんよ。作曲は自分でする。』
安藤君は僕が音楽の知識のないことを知っているので、とても作曲なんぞできるはずがないと、たかを括っていたらしいが、僕は何とか唱歌集とか、学校の唱歌教科書を集めて来て、それを一ト通り読むと、まずここへこの歌を持って来る。それが終るとここで話をして芝居をする。今度はこの音楽を持って来る。というふうに、はさみとのりでどんどん脚本をつくった。さすがの先生も、それには閉口して、泣きを入れて帰って来た。こんな訳で、初期のものは安藤君のつくったものより、私のつくったものの方が多いくらいだ。
大正三年四月からやった「ドンブラコ」、これは北村先生のもので、八月一日から安藤君の「浦島太
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