遍七遍の色版を重ねて、金朱絢爛たるも有り。さて/\凝りしものかな、とは思ふものゝ、何と無く気乗りせず、返事は晩にせんと、其のまゝ揃へて、又机の上に重ぬ。
顔のほてりは未だ醒めず、書読むも懶《ものう》し、来客もがなと思へど、客も無し。障子に面して、空しく静座すれば、又四日の出遊は、岡釣《おかづり》にすべきか、船にすべきか、中川に往かんか、利根川(本名江戸川)にせんかなど、思ひ出す。これと同時に、右の手は無意識に自ら伸びて、座右の品匣《しなばこ》(釣の小道具入)を引き寄せぬ。綸巻《いとまき》を取り出しぬ。検《あらた》め見れば、鈎※[#「虫+糸」、161−下−15]《はりす》、沈《おもり》、綸など、紊《みだ》れに紊れ、処々に泥土さへ着きて、前回の出遊に、雪交りの急雨に降《あ》ひ、手の指|亀《かじか》みて自由利かず、其のまゝ引きくるめ、這々《ほうほう》の体にて戻りし時の、敗亡の跡《あと》歴然たり。
銅盥《かなだらい》に湯を取らせ、綸巻を洗ひかけしに、賀客の訪《おとな》ふ声あり。其のまゝ片隅に推しやり、手を拭ひながら之を迎へ入る。客は、時々来る年少技術家にて、白襟の下着に、市楽三枚重ね、黒|魚子《ななこ》五つ紋の羽織に、古代紫の太紐ゆたかに結び、袴の為めに隠れて、帯の見えざりしは遺憾なりしも、カーキー色のキヤラコ足袋を穿《うが》ちしは明なりし。先づ、新年おめでたうより始まりて、祝辞の交換例の如く、煮染、照りごまめも亦例の如くにて、屠蘇《とそ》の杯も出でぬ。
下
客は早くも、主人の後方《しりえ》なる、品匣《しなばこ》に目をつけて、『釣の御用意ですか。』
と、釣談の火蓋を切りぬ。主人は、ほゝ笑みながら、
『どうも、狂が直らんので……。斯の好い天気を、じツと辛抱する辛さは無いです。責めては、道具だけも見て、腹の虫を押へようと思ツて、今、出しかけた処なんです。』と、又屠蘇をさしぬ。
客は更に、『只今釣れます[#「只今釣れます」に傍点]のは、何です。』
と、問ひ返しぬ。この質問は、来る客毎に、幾十回か発せられし覚え有り、今斯く言ふ客にも、一二回答へしやうには思ふものゝ、此の前に答へし通りとも言ひ兼ねて、
『鮒ですよ。※[#「魚+與」、第4水準2−93−90]《たなご》は小さくて相手に足りないし、沙魚《はぜ》も好いですが、暴風《はやて》が怖いので……。』と、三種[#「三種
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