とは恋愛に対して更らに大いなる能力を有する人種である。而してこの次第に成長し行く恋愛の力は男女間の恋愛、親子間の愛を中心にしてのみ人生の全般に流れ行くのである。
かくして最大なる希望を有する時代の最も顕著なる徴候は近代に於ける女子の智的発達及び男子の愛情的発達が新しき意義を以て女子の内的傾向と男子の外的傾向を包み初めんとしつゝある程度に到達したといふ事実である。女子が活動の形に於て美の程度を高むることを男子より学び、男子が安静の形に於て美を高むることを女子より学ぶ時、此処に始めて恋愛によつて両性の美はしき綜合を見ることが出来るのである。仮令|愛の神《エロス》は同名の遊星の如く一般の人々には不必要に思はるゝも古きエロスはかの新しく発見せられたるエロス(星の名)が天文学者の注意を引くが如く人々の注意を奪つたのである。何故なれば多くの問題が天上のエロスに於けると等しく地上のエロスによつて喚起せられたからである。『男子は一般に恋愛を友とし或はそれに逆《さから》つて人生の職務に従事しなければならなかつた』のである。斯くの如くエロスは実に容易に男子の行くべき道を左右し得たのである。この経験は恐らく女子に対する男子の古き憎悪の主なる理由であつたのであらう。男子は自から許したる恋愛によつて自から堕落したるが如く感じ、又何等の恋愛をも許さゞる時傷けられたるが如く感じたのである。現在に於ける女子の解放は女子の社会的活動及びその恋愛によつて喚起せられたる破壊を通じて男子に新しき逆境をもたらしたのである。斯くして父母はまた温かき家庭の欠乏より苦しみ始めたのである。女子はもはや終日家庭に座して夫の heures perdues(閑散の時)の為めに待することに耐える事が出来なくなつたのである。斯くの如き男子は今まで家庭に全く捧げられた時間といふものを頭に置いてゐた。それは全く理由のない事ではなかつた。彼等は女子が青春時代には愛撫にこれ等の時間を消し、老年には不平と愚痴をもつて過したのを親しく目撃したからである。
併しながらすべての場合に於て精神の親和と友誼の同情とが存在する処には恋愛は過去現在未来を通じて子孫の教育、その他すべての大なる社会的事業に父母の協力として現はれるであらう。若し斯くの如き両親にして単にその子供に生命を与ふるのみにして子供の教育を全然社会に一任するとせば彼等はすべての教育より遙かに重大なる父母たる本分を剥奪せられたるが如く感ずるであらう。即ちそれは母に愛せらるゝ男子の人格と、父に愛せらるゝ女子の人格とに共通して流るゝ生命である。而して両親が相互に成長するに従がつてその重要なる度はます/\増加せられるのである。
恋愛によつて得たる幸福は人生の最深の要求の一つを満足せしめ、直接にその最善の力に衝動を与へて他の力をも増加せしむるが故に恋愛による個人の幸福は社会的価値を建設し個人の恋愛の標準が高めらるゝに従ひ社会全般は愈《い》よ向上せしめらるゝであらうと云ふ結論に吾人は達するのである。
併しながら全ての人類は悉くみな恋愛の賜物を賦与されてはゐない。それを所有せる人にてすらなほ他の趣味嗜好を有してゐる。故に男女何れの場合に於ても幸福の観念は恋愛の幸福と全然同一なりと云ふことは出来ない。又、大体に於てそれは個人が自から支配し能はざる境遇に属する種々なる力の要求若しくは適用の満足を意味することも出来ない。吾人の力のあらゆる発展を意味せざる幸福は極めてつまらなく見ゆるであらう。幸福の意義は全て偉大なる能力の完成であり更らに愈よ大いなる完成に対する要求を満足せしめんが為めの不断の期待である。幸福とは畢竟愛し、働き、考へ、苦しみ、楽しんで次第に向上するをいふのである。この向上は時に『幸福』によつて達せられ、時に『不幸』なる境遇を通じて達せられる。斯くして最も深き意味に於ける幸福は人生に横はる諸《もろもろ》の運命を通じて人生が次第に向上発展せらるゝことである。この意味に於て幸福は人生そのものゝ内に生の目的を発見する人の唯一の義務である。若し幸福の感情に変化せられざる唯一の義務があるとすれば個人の生活と団体の生活とは猶ほ充分なる意義を有せざるものと云はるべきである。
全ての人事関係中幸福は其目的であると同時にその手段でもある。併し他人の幸福を目的とする慈善事業に於ては少くともさうではない。慈善事業とか社会的事業とか云ふものは単に他人の幸福のみを目的としてなされるなら基督教的慈善の失敗した様に失敗するであらう。人は幸福に対する自己の要求並びにそれを満足せしむる様々の条件によつてのみ始めて他人の要求とそれを満足せしむる条件の如何なるものなるかを知り得るのである。
義務としての幸福は恋愛との関係上健康と云ふ他の幸福の大なる価値と比較する事によつて説明せらるゝ観念である。中世時代にあつて人々が自己の肉体を飢渇、汚物等によつて苦しめ弱めんと計り、疫病に神罰を認め苦行によつてその救済を計らんとせる時吾人が今日有するが如き衛生上の観念は微塵もなかつたのである。個人が健康を神の意志なりと認め、各自の健康を増進することを以てその義務なりと見做し、地上の生命が善良なるものと認められ、社会が科学の活動を健康の法則に適用し、疾病を征服し、生命を延長する事を以てその義務なりと考ふるに至るまでは人々は健康衛生に対して何等の観念をも有してゐなかつた。健康は次第にそれ自からを目的にするやうになつて来た。而して幸福はそれが他の目的の為に有用なるか或は無用なるかを問はずそれ自からの為めに努力することを吾人は承認しなければならないやうになつた。然るに今日に於てもなほ自己の精神生活によつて病体を維持してゐる人々がある。又自己の健康を増進せんとする良心を有しながら不幸にしてそれを失つてゐる人も沢山ある。或は自己の健康に対して過大の注意を払ふ利己的の人があり、自己の健康を更らに高き目的の為めに犠牲にして惜しまざる博大の心を有する人もある。然しこれ等はすべて各個人が自己の健康を自己及び社会に大なる直接の価値あるものとして取扱ひ、単に他人の為めのみならず自己の健康の幸福のために努力することを以てその権利でもあり義務でもあると考へてゐる一般の法則を破壊してはゐないのである。他の言葉を以て云へば中世紀に於ける観念はこの場合に於て全く顛倒されたのである。
来るべき時代はこれと同じく現在に於ける恋愛の観念を悉く顛《くつ》がへすであらう。現在に於ける恋愛の観念はかの中世紀の健康に対する観念と等しく人生にとつて有害なるものである。此価値の転換或は変化は健康に関して私の述べた場合と同じく恋愛に於ける様々なる条件の現出を妨げないであらう。併し要するに各個人が自己の恋愛を自己と社会に対し両《ふた》つながら大なる価値ありと信じ、この幸福のための努力を以て自からの権利であり、義務であると思惟する上にその最大の主張が置かれなければならない。
私のこの見解に対してフエルスタア博士は懇切なる批評をせられた。博士の批評は基督教の禁慾的人生観から見れば極めて自然のことである。氏の意見に従へば俗社会の律法並びに宗教的権威に服従することが更らに高き進化に進む唯一の道である。自己の修養及び克己が成長の最上条件である。この見解によれば神聖と愛の権利のために説かれたる言辞は悉く『自然の崇拝』である。而して受難そのものがより[#「より」に傍点]高き修養に至るの道である。而しそれは自己の慴伏《しょうふく》によつて到達せらるゝのである。最善の愛は信実と忍耐とである。それのみが独りよく深遠なる精神力を釈放し、人間を神聖の域に結び付ける。結婚に於ける信実は人をして肉慾的の本能と情熱より自由にせしめ、高き意味に於ける人格発展の可能を彼に与へる。然るにかの『自由恋愛』はこれ等の精神状態を発達させない、而して結婚以外の母は生れたる子供に安固たる家庭生活を送らしめず、子供に対して真摯なる責任の感を喚起せざるが故に排斥せられなければならない。かくの如き子供は又情熱によつてのみ生れ出でたるが故に母の愛は責任に面するの時消え去るのである。
かくの如き禁慾的人生観より云へば私の述べた如くこの見解は極めて自然である。併しながら人生の目的が人生そのものである人は其精神的要求と同じく肉体的要求に対して同一なる尊敬を感ずるのである。斯くの如き人は又不道徳なる肉情が存するが如く不道徳なる禁慾主義が存するといふことを知つてゐる。何故不道徳であるかと云へばそれは人道と個人に対する向上でないからである。彼は又二個の未婚者が子供に生命を与へる時、自然はその子供に立派なる天賦の力を授けて『情熱』に報ゆるものであるといふことを知つてゐる。自然はこの『情熱』なるものを通じて神秘なる目的を追及してゐる様に見える。それは義務の観念といふが如きものゝ到底よく行ふところではないのである。
故に最も重要なることは吾人が精細に自然を研究し尽した後に吾人の権利の観念を自然と調和せしむるが如く計ることがある、単に道徳的観念にのみ囚はれ、明らかに自然に反対して無条件に自然を圧服せんとするは不必要である、より[#「より」に傍点]高き恋愛の修養は克己を恋愛と親たる責任[#「恋愛と親たる責任」に傍点]に結び付くることによつてのみ達せられるであらう。恋愛と親たる責任が両性関係の唯一の条件となさるゝの時[#「恋愛と親たる責任が両性関係の唯一の条件となさるゝの時」に傍点]相対関係はその結果として生ずるであらう。
この理由により、全ての青年は恋愛に於て更らに偉なる要求をなし、父たる権利に対して更らに高き思を抱く様に教育せられなければならない。克己は全ての関係中にあつて真の恋愛及び健全なる親としての一条件として教へられなければならない。併しながら自棄は恋愛に於ける完全なる幸福が個人の精神及び一般の人道の成長に資する時説かれてはならないのである。自己離婚の権利も結婚せざる母権も全くこの道徳的見解から批判せられなければならない。結婚の有無に関せず母としての無責任は常に罪悪である。母たるの責任は結婚の如何を問はず常に神聖である。離婚の自由は種々なる感情及び事情が母としての道に横はる様々の障害を除くことは出来ない。併しながらそれはかの他人のために犠牲たることは自己の精神を生かすの道にして、他人を犠牲にするは精神を殺すことである。故に自己の都合よき様に犠牲の問題を決定するの個人は社会に於て無価値なるものであるといふ極めて不合理なる説を打破することが出来る。
不幸なる結婚に於ては結婚者の一人が他を犠牲に供さなければならないといふことは偏見なき反省の示す処である。行かんとする人は彼を止めんと欲する人を犠牲にする。又止めらるゝ人は彼を制抑する人の犠牲となるのである。時としては他を犠牲とするより自己を犠牲となすことの更に罪の大なるものがある。時に又その反対の真実である時もある。而して若し吾人はその罪の大小をば何人が定むるかを訊ねらるゝ時は左の如く答へる。――それは義務に於けると等しく困難なる争ひを決定しなければならない個人の良心である。吾人のとるべき道は唯だ二つある、天主教的結婚か或は自己の責任を全うする自由結婚かである。
その他の諸問題に於てもこの疑問に対する答は各自の抱く人生観に準じられなければならない。
吾人は人間がある権威の命令に対して自己の理性や意志や良心を曲げなければならないと信ずることも出来るし、屡々経験を反復し、力の様々なる試練を経て自己の道を発見することも出来ると信ずる。又服従は更らに高き修養に達するの唯一の道であると信ずることも出来れば反抗が服従と等しく要素的《エッセンシャル》なものであると信ずることも出来る。又肉情的本能は陥穽でもあり、障害でもあると信ずることが出来ると同時に理性や良心と同じく人生の向上的運動を指導するものであると信ずることも出来る。若し吾人が後の意見を持するとすれば性的生活に於て正不正成長衰退自己の犠牲及び他人の犠牲といふことが人生の他の局面に於けるより一
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