恋愛と道徳
エレン・ケイ
伊藤野枝訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)屡々《しばしば》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)結果|孰《いず》れが
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(例)個人が恋愛関係によつて最高の幸福を享楽しなければならない[#「個人が恋愛関係によつて最高の幸福を享楽しなければならない」に傍点]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)もろ/\
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恋愛のために個人の幸福と社会の安寧とが屡々《しばしば》衝突する事がある。此の時に現在の義務と云ふ観念が社会に対する個人の絶対無条件の犠牲を要求する。私共はこういふことを屡々耳にする――凡《およ》そ国家として欠くべからざるものは健全なる父母であり、而《しか》して彼等の確固たる永久の結合はその子孫の教育を安全ならしむるものである。さうして、此要求が個人の幸福に対して干渉する場合には、個人は何時でも犠牲の位置に立たなければならない。この個人が禍を蒙むると云ふことが直ちに結婚の覊絆《きはん》をゆるめなければならぬといふ理由にはならない。而して両親の大多数が子供と云ふものは家庭に於て最もよく養育せられるものであると云ふ意見を抱いてゐる間はその様な理由は確かに成り立ちはしないのである。であるから国家といふものは結婚制度の変化如何に由て何等の影響をも蒙むるものではない。又離婚を容易ならしむると云ふことが人間の密接なる関係によつて常に生ずる不和合の原因を除去する手段にもならない。仮令《たとえ》現在の結婚制度が最も進歩発達したる階級にある男女の要求に背くものであつても、かの、少数を利し多数に有害なる革新と、多数を利し少数に禍する現在の制度とを比較選択する場合にあたつては全体として社会を利する現状を認容しなければならない。現代に於て離婚を容易ならしむるは徒《いたず》らに離散を事とし、結婚制度を極めて放肆《ほうし》なるものと化し、その結果として、先《ま》づ家庭は破壊せられ次で国民の滅亡を惹き起すに至るのみである。故に幸福を要求する恋愛は国家の安寧秩序を破壊する純然たる叛逆である。幸福は恋愛個人主義によつて遂行せられるといふ理論は歴史と人種誌と自然との等しく加担せぬところである。而して静かなる克己と勇気ある義務の完成とが常に教へられなければならない。子供の出生と共に、その両親の幸福は停止せられなければならない。若《も》し両親にして自己の幸福を犠牲にしない時は自然はその法則によつて彼等の罪を子供に報ひ、以て彼等の義務の怠慢を罰するであらう。
斯《か》くの如きものが所謂《いわゆる》世俗の義務論である。この義務論は独り恋愛ばかりでなくその他の人間の関係にも種々なる影響を及ぼしてゐる。而してこの議論中にひそむ大なる誤謬は社会の安寧秩序は必然に個人の犠牲によつて成就せられると云ふ観念である。而してこの理論を明かにする為めに挙げらるゝ証拠も亦等しく虚偽である。かの歴史と謂ひ人種誌といふものゝ示めすところは我々が人性と呼ぶものゝ所作にすぎない。而して人性なるものは元来時代と国民性と風土につれて絶えず変化する現象である。その現象によつて見るに『自然』なるものは一面に命ずる処を他面に禁じ、一方に否定せられる時はそれを他方に要求してゐる。仮令へば仏蘭西《フランス》に於て今日最も進んだ非離婚論の如きは『再婚は自然に反す』とか『婦人は家庭以外に於て決して真の母たる能はず』とか或は『家庭は吾人の理性によつて左右せらるゝものに非ずして社会学或は生物学によつて証明せられたる「自然の法則」に準拠するものなり』といふが如き論拠の上に立てられてゐる。かくの如き議論は特に仏蘭西に於てかの離婚しがたき結婚制度の陰影として『自然の法則』の生んだ姦淫を忘れがたいものにするのである。所謂結婚に対するあらゆる弁護はかの『哀れむべき人々の外交術と称するものは真理を偽はり存在せるものを否定することによつて成立す』と云つたラサルレの言葉を確むるものである。かくの如き議論を聞いて人は結婚の攻撃は夢の如く美はしき牧歌を破壊せんとするものであると想像するかも知れない。併《しか》しながら現今の結婚制度は実に寒心すべきものがある。私等は先づ来るべき新制度に伴ふあらゆる危険を予想した上で現今の制度と比較研究の結果|孰《いず》れが更に恐ろしいものであるかを認めなければならない。よし今の社会状態が多くの不徳と不幸との原因でなかつたとしても、問題は『近代の結婚制度は善良にして果してよく社会の需要に応ずるものなりや』と云ふのではなく『奈何《いか》にせば吾人は種族改善の為め現在のそれより更らに有効なる道徳律を発見し得るや』と云ふに存する。『恋愛と結婚』の根本思想は、個人が恋愛関係によつて最高の幸福を享楽しなければならない[#「個人が恋愛関係によつて最高の幸福を享楽しなければならない」に傍点]といふのではなく、個人の幸福が即がて種族の改善に資するが如く社会が矯正せられなければならない[#「個人の幸福が即がて種族の改善に資するが如く社会が矯正せられなければならない」に傍点]といふのであつた。
『恋愛と結婚』の中に私は一夫一婦――即ち一生を通じての恋愛関係を以て両性間に存する唯一の道徳的関係であると主張する人々はかくの如き道徳律の結果として生ずる多大なる生活力の浪費を無視するものであることを指摘して置いた。若しその生活力が利用せられるなら立派なる子孫を生じ人種の改善に貢献する処があつたかも計られないのである。然るに一方社会の悪分子は何等の道徳律にも束縛せられずして彼等の同族を蕃殖《はんしょく》せしめてゐるのである。かくの如く調子高き理想主義は中世紀の修道院に於けるがごとき同一の結果を生ずるであらう。而して現在の如き社会状態にあつてはかくの如き道徳律は仮令進化の趨勢が疑ひもなく最終の目標として真の恋愛的結合に向ふにもせよ、或はまた結婚如何に関せず両性の結合に於て霊肉の一致が真に貞潔の条件として確認せらるゝとも人種の改善を妨ぐることは免ぬかれないであらう。
種族の為めと云ふ見解から見ると法律上及び宗教上の道徳の形式は今日に於ける最も進歩発達せる性的意識並びにその道徳に拮抗して充分にその論拠を維持して行くことは出来ないのである。道徳なるものは科学が不断の努力を以て既に発見し、又発見せんとしつゝある種族改善のために都合よき条件を支配せる律法中に新しき標準を求むると同時にそれ自からの中にも求めてゐるのである。此等の律法と此の意識は私の前の著述にも指摘した如く時として相争ふかも知れない。仮令ば性的理想主義者は恋愛を以て父母たることの唯一の条件なりと主張する。人種改良論者は多くの立派なる子供がその子供の父を少しも愛せざりし母より出生せりとの事実を主張する。性的理想主義者は恋愛の結合を主張し、改良論者は貞淑を以て不生産に対する多大なる責任を有すと云ひ、種族に対する浪費なりと叫ぶ。理想主義者は愛情の最も濃やかなる両親を以て最上なりと弁護する。改良論者は人道の為め最も必要なる事は男女が恋愛結婚の如何に拘らず、父母たることの資格に於て最も適当なるものゝ結合ならざるべからざるを主張する。彼等はその例として結婚の条件に何等の恋愛をも加味せず、しかも永く強力なる存在を維持し来つた国民を挙げてゐる。理想主義者はそれに答へて国民の維持といふこともさることながら霊性の高揚と云ふこともまた忘るゝ能はざる事柄であると云つてゐる。国民はその下劣なる性格によつて存在もすれば又その高貴なる性格によつて存在もするのである。種族は遺伝せられたる野蛮性と動物的特質を自然淘汰にて根絶することによつてのみ向上せらるのである。
この見解よりして見る時は人生に於けるその他の問題も皆種族の向上を以つて目的とするものであると見做《みな》されなければならない。成金の子供達は通則として強く美はしく健全なるものであらうか? 若し然らずば富を狂熱的に追求することは種族の改善に間接のみならず直接の妨害として排斥せられなければならない。又此処に恋愛を感ぜざるも父母たるに適したる男女が独身生活を続けて苦しむよりも結婚して社会に健全なる子供を提供し以て以前より更に満足なる生活を送り得るとしたならば或は又恋愛を相互に感ずるも永久単一なる恋愛を持続すること能はざる男女があるとすれば、かの単一恋愛理想主義者は最早その恋愛の標準を彼等の上に強ふるの権能を有せざるものである。
併しながらそれは自己の主義以外に彼等の理想を認めざる青年の間にあつて特に企てらるゝことが多い。かの若き『自由思想家』等でさへ自由な寛大な態度を以て性の問題には向はないのである。彼等は唯だ僅かに可能なる二途あるのみと思惟してゐる様に思はれる――即ち慾望の奴隷となるか或は義務の奴隷となるか二者の一を選ぶにある。而してその他の人々に至つては徒らに『鉄鎖を求め埒内に止まらんこと』のみを希《ねご》ふてゐる。彼等は只管《ひたすら》に時間表、出帆日程、或はクツクの旅行案内を打眺めて旅行の安全ならんことのみを欲してゐる。かくの如くしてかの自己の責任の上に立ち自己の危険を賭して新しき道を開拓し新しき国を発見せんと只管に猛進するの勇気を何処に認むる事が出来やう。かの『真理の探求者』を以て自任する若き人々さへこの問題を取り扱ふ時にあつて起り来る矛盾に対し徒らに唸くのみである。然しかくの如き人々は人生なるものが恋愛中に最も矛盾せる形を表はしてゐるものである事を忘却してゐるのである。人生は由来活物である。故に容易に捕捉しがたいものである。人生は一定不変のものではなく、常に千変万化して生長してゆく、而して神秘の道程に沿ふて全ての生物を導き、吾人の哲学中にあつて夢にも見る能はざるものを示してくれるものである事を彼等は知らないのであらうか。人生は吾人の期待せざる種々の運命と驚異すべき経験を貯へ吾人の先見し能はざる幾多の蕾を蔵するものなる事を彼等は瞥見する事が出来ないのであらうか。人生の美しさはその容易に打算し能はざる処に存し、人生に於ける偉大なる事業とは人生に横《よこた》はる幾多の不安をものともせず次第に高峰を仰で攀登《はんとう》するにありといふ事を彼等は感じないのであらうか。
若し吾人にしてこの事実を認め得たならば仮令それが如何程崇高なるものにせよ一定不変の理想と云ふが如きものを要求することはないであらう。自己のみの理想と雖《いえど》も明日はそれが一般のものと変じ、更らに又新らしき理想が生れて、それを破壊するものであるといふことを知つてゐる人にとつてこの無限なる人生が単一無二の標準によつて推移して行かなければならぬと云ふ思想程恐ろしいものはないであらう。
かくして理想主義なるものは各人が皆な自己の理想を最高なるものの如く思惟し仮令それが他の人々に如何程馬鹿々々しく或は不必要に又恥かしきものと見ゆるとも当人はそれが為めに生死を共にして悔ひないものであるといふことを認める事が出来る。
理想主義者とは恰《あた》かも重き鉄槌を振りまはし義務と云ふ概念の砂礫を道路に打ち込み以て他人の旅行を容易ならしめんと企てるが如き人である。然しながら、地上の道路は無限に延長せられ、両極より赤道に至る迄無数の風習と気質とを異にする人生が横はつてゐるのである。かくの如き多変の人生に対し唯一無二の道徳的標準として生涯不変の恋愛説を主張せんとするが如きは思ふだに愚なることである。
かくの如く主張する人々は自己の思想を同種類の隣人によつて定められたる狭隘なる圏外に彷徨《さまよ》ひ出づることを許さなかつた。彼は又理想なるものは大多数の人々には不可解なるものであつて若し一度それを絶対なるものとして一般人類の上に強ふる時は全く排斥せられるものであるといふことを忘れてゐる。
自己の精神より溢れ出づる信念を宣言すると云ふ事は他人に対して同一の精神状態を要求するといふ事ではない。併しながら人が自己の教訓或は生涯に
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