よつて彼の所信を発表する時は自然自己と同一なる精神状態の拡張を促がす様になる。他の人々は彼の影響を受けて自己の精神上の修養及び自己の生涯の法則を彼に則とらんとする様になる。併し彼は主観的に自己を宣言する時に彼の仕事はそれを以て終りを告げてゐるのである。
全ての社会問題、習俗、慣習、快楽等が悉《ことごと》く人種上に及ぼす効果如何によつて規矩せられるといふならば早晩ある絶対の標準を定めて吾人は悉くそれに準拠しなければならないやうになるであらう。併しながら先づそれは初めによく研究せられなければならない。欧洲に於ては一夫一婦制は絶対の道徳律として定められてゐる。そうして国民の健康と維持に対する条件となつてゐる。併しながら近代の日本人及び古《いにし》への希伯来《ギリシア》人の如き不屈なる国民中にあつて吾人は蓄妾が律法と習慣とによりて定められたる制度なることを発見する。
結婚が深き個人的恋愛より成立せらるゝ国民は他の国民に対して不利な地位に立たなければならない。而して遂には滅亡に立至らなければならぬやうになる。何故なら深い個人的恋愛と云ふものは未だ例外であつて人はその為めに高い価を払はなければならない。その上他の人々に対して自己の行為を充分なる道徳的要求として課するの勇気を有してゐないからである。
かくの如き種々なる理由から私は『恋愛と結婚』の中に近代に於ける性の問題は一方に於て種族の改善に対する要求を認め、他方に於ては恋愛によつて幸福を発見せんとする個人の要求の増加を対峙せしめて適当なる平衡を発見する処に成立するのであると説いて置いた。
然るに以前この問題は一定の結婚の形式に対する社会の要求と、如何なる形式に於ても自己の性的生活の満足を得んとする個人の要求の間に存してゐた。この新しき平衡より出発する性の道徳こそ唯一にして真実なる道徳となるであらう。而して種族と個人はそれによつて大なる影響を受け人生は次第に向上せらるるであらう。
私が又、『恋愛と結婚』中に指摘して置いた如く性の問題は即ち生の問題である。さうして社会安寧幸福の問題である。この問題に比する時、自余の諸問題は殆んど無意義なるが如き感がある。凡そ教育と謂ひ智力並びに宗教上のあらゆる修養努力といふもそれを決定する主たる問題として人類の向上を念頭に置く迄は浅薄たるを免かれない。吾人はこれまで各時代に於ける個人の自己改善を通じてなされたるのみならず、その開発せらるるに従つて種族の繁殖を定むるもろ/\の条件を認識する淘汰的本能を通じて行はれたる、人類の向上に努力しなければならない。
とはいへ私は人種改良の偏見に対して『恋愛と結婚』の中に人類は恋愛中に種族の向上発展に最も効果ある淘汰の方法を発見した[#「人類は恋愛中に種族の向上発展に最も効果ある淘汰の方法を発見した」に傍点]と云ふ仮説を叙《の》べて置いた。併しながら熱心なる真理の追求者は証明せられざる仮説を争ふべからざる原理なりとしてかかぐるが如き事は到底思ひも及ばざる事である。私の主として求めたものは恋愛の自由と云ふ事であつた。それによつて私共はその効果を観察するの機会を多く与へられんが為めである。私はまた、遺伝の影響といふものを研究する上から恋愛の効果といふことに多大の注意が払はれなければならないと云ふ事を力説した。祖先の特性を遺伝する様々なる結合に絶えず洞察の眼を放ち、以て人生の種々なる方面が次第に高き水準《レベル》に昇り行く淘汰の諸法則をよりよく発見し、淘汰をして最善の性質を保存せしめ最悪なるものを根絶せしむる為めにこれ等の諸法則と道徳的に結合せしむるはこれこそ誠に進化の一般の目的であると云はれなければならない。
進化の一要素として唯一恋愛の必要を深く認むる人々でさへもそれ以外になほ多くの諸要素の存在を認容しなければならない。いかに熱狂なる理想主義と雖もそれ等を進化の過程中より除去することは出来ないのである。
二個の細胞と二個の細胞精神より吾人の複雑なる存在を創造し、現在に於て種族を決定する諸種の結婚の形式と恋愛の理想とを生み出せる生命の力は数億万年以前に始められたる進化の連鎖中に於ける一|鏈環《れんかん》に過ぎぬのである。而して吾人はこの恋愛の進化が何等前提せられたる理想の模型もなくして遂行せられたるを知るが故に、|愛の神《エロス》は現在の上に吾人が今や曙光の自覚を有し始めつつある理想的様式を道徳的標準として課することなく依然として渾沌たる性的関係中より世界の改造を持続するであらうといふことを疑ふに都合よき何等の理由もないのである。一方に於て又この問題が全く『自然的本能』或は官能の満足に委《まか》し去らるべきものと考ふる人々、或はその善悪正邪は偏《ひとえ》に神聖なる本能によつて定めらるべきであると信じてゐる人々は諸々の理想を創造する人間の力が永く進化の一要素であり、現在に於ける唯一の問題は『如何にせばこの力が進化中にあつて有益なる一動力となされ得るか』といふことであるのを忘却してゐる。
人種の改善に力を傾注すると云ふことは『恋愛と結婚』の中に私が説明して置いた通り現在の渾沌たる恋愛の状態より単一個人的恋愛に至る橋梁を架設するが如きものである。これは又恋愛がその不合理なる性質を免かるる唯一の道である。ゲーテは且て『恋愛に於て凡《すべ》ては冒険である、何故なれば凡てが機会にのみ待たれなければならないからである』と云つた。併しながら全てこれは未だ発見せられざる法則に対する他の名称に過ぎない。何時か我々は霊肉の愛情的不調和並びに或る人々の間に存する心理的不調和が消滅するの日に到達するであらう。何故なれば最高の幸福を経験せんとする事は万人の欲求であるからである。而して最高の幸福は心理的必然から多くの小なる感情を除去する寛大なる感情によつてのみ達せられるのである。然しながら前途は未だ極めて遼遠である。而してその間にあつてある人々はある個人に対して彼等の理想の完全なる体現を求めて得ざりしがために幾度も恋するのである。かくの如き人々は或る一人にその理想の一方面を発見し、又或る他の人にその理想の他面を発見する人々である。又ある人々は新なる精神の伴侶を発見する時は恰かも且て起らざりしが如く彼等の以前経来つた経験を悉く忘れ去るのである。或はまた一度深き恋愛に誤まられたる後最早進んで新なる経験を味はんとする能力を失ふが如き人々もある。
『恋愛と結婚』は新なる献身の念を有《も》つて人生の賜物を保護せんと決心せる若き人々に与へられたのであつた。故にそれ等の人々は道徳的法則が石碑の上に書かれたるに非ずして血肉の上に書かれたるものであるといふことを知つてゐる。而して彼等は恋愛中に発見する高尚なる幸福は人生に対する高貴なる職務にして神に仕ふるより敬虔の念に於て遙かに優れたるものであると感じてゐる。併しながら何処に恋愛の自由が終り新代の権能が始まるかは又彼等の決定しなければならない問題である。
生理的にも心理的にも最上の子孫を作る種々なる条件に対して吾人の智識は未だ極めて乏しいのである。故に恋愛理想主義者の信仰はかの進化の事実を無視せずと称する人々に比して更らに大なる社会的譲歩を得ることは出来ないのである。
当然要求せらるべきすべての社会的譲歩のうち、最も根本的なるものは父母たるの道が結婚の儀式によるにあらずして、彼等の子供に対する責任を明かに進んで認むる二個の男女の意志によつて定められなければならないと云ふことである。又、第二に主張せらるべき社会的譲歩は離婚が配偶者の一方の意志によつて決定せられなければならないといふこと、而して男女が結婚上の権利に於て同等でなければならないと云ふことである。
それ故、社会は従来の如く夫と妻とが如何なる逆境にもせよ単に共同生活を持続して行き、而して如何程不完全にもせよ彼等の子供を養育して行くならばそれを以て満足してゐたのである、かくの如き間は新しき義務の観念が生の向上を助けるであらう。何故なればこれ等の新しき原則は幸福と結合せられたる義務、権利と結合せられたる責任の組織的成長に対するあらゆる先要条件を有すると同時に日々に一般の勢力を有せんとしつつある全ての宗教、道徳、経済上の理想と権利義務、幸福、責任の組織的結合に対しても又先要条件を有してゐるのである。更らに又、これ等の諸原則はその適応が人間精神の協力並びに風習の一般化に必要なる程度に於て今日と雖も現状態に適応されることが出来る。かくして低級なる人々は高級の人々によつて教育せらるるであらう。
一般社会に於ても又個人の場合に於ても、全ての新しき形式を通じて充分なる力の発揮を試み、豊富なる変化を与へ、同時に完全なる結合を呼び起す企ては常に進化の過程に一歩を進める事を意味するのである。若しも社会にして全ての子供を同様に保護し個人をして彼等の恋愛を保護することを許したなら現在二つの異なれる方向に放射しつつある精神的生活の勢力は更らに焦点に集められるであらう。子供の根本的生活に対する責任の感情は正出といふ俗論に依て弱められ、子供の養育に対する責任の感情は私生といふ俗見に依て又弱められる。
恋愛を更らに向上せしむるの努力は即《や》がて恋愛が生命を得、幸福を与ふる衝動となるのである。この衝動の停止は直ちに恋愛の死となるのである――離婚の自由によつて現在の結婚制度が終りを告ぐると同時にこの努力は無限の力をもつて猛進するであらう。
屡々駁論に於て例証せらるる如く自由結婚に於ても恋愛の死するといふ事は事実である。然しこれは自由離婚によつて実現せらるる美はしき恋愛の可能を否定する何物をも証拠立ててはゐない。而して自由結婚が屡々破壊せられるのは社会が自由結婚者を迫害するに多く起因してゐる。現在に於てすら法律は離婚に対して最も僅かの制裁をしか加へてはゐない、離婚を妨ぐるものは寧《むし》ろデリケートな感情、優しき良心、同情などいふ心理状態である。故に自由離婚は不真面目なる人々をして徒らに多大の自由を享楽せしむるものであるといふ反対論があるが、これは一応|尤《もっと》もな次第である。結局離婚問題はそれが現在の不幸を予防するとかしないとかいふ問題ではないのである。その主たる問題はその心理的効果が漸次美はしく権威ある恋愛生活を創造するに与《あず》かつて力あるといふ点である。
この証拠は今迄継続せられてきた努力中に発見し得られるのである。両親がその子供の結婚――特に娘等の――を定めた時でも、或は「私は自分の恋人を得られるであらうかどうであらう?」といふのが第一の問題であつた場合に於ても大体の上から観察する時は当時の恋愛といふものは非常に精神的の性質を欠いてゐた。又全精神生活の上には殆んど何等の影響をも及ぼさず、内的調和といふ様なものの上にも別段の要求を持つてはゐなかつた。要《ようす》るに只だ外部の事にのみ力瘤が入れられたのであつた。併し現今では若き恋人等が通常自己の運命を定める時には、如何に豊富な色彩ある新しき精神的感覚、情緒、感動を示すかは彼等の霊性を洞察するの特権を有する人々には明かである。最も精神的な女子は自己の撰択に対して最も個人主義的な意志を現はしてゐる。若し彼女の情熱が呼び醒される前に男子の熱い息が額にかかる様なことがあればその男子の慾望の微かな予感すら彼女の感情を枯してしまふであらう。而して高尚な青年の間にもそれに対する同一の意志が徐々に発達し静かに自己の撰択すべき女子を待ち望んでゐる。そうして女子よりも迅速に進む慾求を止めてゐる。
これ等の青年男女は既に長途の旅程を経過し、恋愛を通過して『自からを投げ出す』危険には陥ることがないのである。約言すれば、自由が開放した其勢力が自由の危険なる結果を防止してゐるのである[#「自由が開放した其勢力が自由の危険なる結果を防止してゐるのである」に傍点]。
『恋愛と結婚』の中に性的関係が普遍にして決断的なる意義と神聖を以て飾られなければならないといふ確信を私はこんな風に云ひ表はした。――恋愛は曾《かつ》て諸国民が敬
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