w密接の関係を有するものなることを知るのである。又性的生活に於ては『正』は屡々『不正』となり、他を犠牲にするは恐らく秘かに自からの犠牲となつてゐることであり『情熱』は義務のなし能はざる偉大にして美しき結果を生ずるものであることを吾人は知り得るのである。
要は唯だ人道に新しき存在を与ふる権利ある男女に対して常に偉大なる要求がなされなければならない[#「人道に新しき存在を与ふる権利ある男女に対して常に偉大なる要求がなされなければならない」に傍点]といふことである。
この新しき要求が容れらるゝには現在の結婚制度に従属せる親権を造る倫理的観念が顛がへされなければならないのである。その時にのみ全体の道徳的勢力が人間の生理的及び心理的性格の上に加へられるであらう。而して両親は子供とその子供の継承する特性に対して最も重要なる要素となるであらう。子供の性格が社会の道徳的観念を決定する要素となるまでは自然的道徳は非自然の道徳と入換はることは出来ないであらう。それは全ての禁慾主義が不必要になるといふ意味ではない。只だそれが人生の進歩に与ふる場合以外には要求されないのである。而して又全ての信実が消え失せてしまふといふ意味でもない。その信実は個人的になり、夫と妻とは二人の友人の如く相互に親切とやさしさと思慮とを現はす様になるであらう。即ち彼等はかくの如くすることを以て相互の恋愛を保存し、その恋愛が充分なる成長を遂げ得る唯一の道であると覚るからである。
霊性が発達するに従つて彼等は愈々強き肉体的情熱と最も偉大なる霊的恋愛を要求する様になるのである。恋愛者はかくして自己の為にのみ自己の情熱の統御を自己より獲得し、自己のために共同生活に必要なる全ての条件の修養に尽瘁する、かくして心霊の精力は内部より外部に解放せられる。吾人の恋愛が更らに親しく、やさしく完全に進む程吾人の恋愛を通じてより多くの幸福を享楽し得らるゝことを経験によつて学び得るのである。
かの唯一の真実なる道徳と見做されんとして今なほその権利を主張して止まざる旧道徳は神聖なるものは全く精神と意志の中にのみ存し肉体、本能、衝動中には決して存せずといふ人生観の上に立つてゐるのである。かくの如きは何等かの権威の保護を必要としなければならない観念であつて、自己の法則の上に頼ることを敢へてすることが出来ないものである。然るに新道徳は霊を以て肉に反抗するものとは見做さない。又自然の全ての現象をば『神聖』とは呼ばないのである。新道徳は肉と霊に神聖なる二個の形[#「神聖なる二個の形」に傍点]を見るのである。而して神聖なるものが一層明らかに自からを現はせば霊と肉とは相互に遍通するのである。動物的人間は霊肉の矛盾を感じない。『精神的』の人のみ肉を圧迫して自己の感ずる二元より免かれんと欲求する。新道徳の目的はこの矛盾を除かんとする[#「この矛盾を除かんとする」に傍点]にある。恋愛に於てはこれが真実の恋愛によつてのみなされるのである。この意味に於ける結合の所有或は欠乏を通じてのみ各人は自己の恋愛の価値と正しきことゝを見ることが出来るのである。
私は社会より全ての形式を剥奪せんとするものゝ如く云ふは誤れる非難である。『恋愛と結婚』を通読した人々にはこれはよく理解せられてゐることと思ふ。それは新しき形式を要求する人々に対して常に為さるゝの非難である。私の提出した新形式の心理的内容と律法的堅実を疑ふ人があるかも知れない。併しながら何人も私が何等の拘束なき自由を要求したものであると主張することは出来ない。私の云ふ束縛とは若樹を縛る麻縄の如きものであつて、かの将《まさ》に倒れんとする老樹を辛うじて支ふる鉄の箍《たが》の如きものではないのである。
底本:「定本 伊藤野枝全集 第四巻 翻訳」學藝書林
2000(平成12)年12月15日初版発行
※ルビを新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。
入力:門田裕志
校正:Juki
2008年9月25日作成
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